論文・論説・エッセイなどを紹介するコーナーです
【政府提案「旧宮家養子案」の意味するもの】「旧宮家男系男子孫」皇族養子案が持つ正当性 ~総裁直属機関設置の新たな動きに合わせて考える(ジャーナリスト 宮田修一)
当論文は「皇室の伝統を守る国民の会」をご支援頂いている日本会議が発行する『日本の息吹』上で、令和5年12月号に掲載された「特集」の論文を、許可を頂き当会ホームページに掲載しています。皇位継承問題で政府の有識者会議が旧皇族の男系男子による皇族...
【政府提案「旧宮家養子案」の意味するもの】男系男子による皇位継承の必要性について ~何故「旧宮家養子案」か(麗澤大学国際問題研究センター客員教授 勝岡寛次)
当論文は「皇室の伝統を守る国民の会」をご支援頂いている日本会議が発行する『日本の息吹』上で、令和5年12月号に掲載された「特集」の論文を、許可を頂き当会ホームページに掲載しています。「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」(皇室...
【十一宮家物語〈第十回〉】最終回 皇室と旧皇族の「菊栄親睦会」は平成にも受け継がれて令和へ ―有識者会議ヒアリングで相次いだ「旧皇族男子孫から養子を」の声―
宮田修一(ジャーナリスト)GHQの圧力によって昭和22年(1947)10月に皇籍離脱を余儀なくされた十一宮家の方々は、昭和天皇の思し召し(おぼしめし)で「菊栄親睦会(きくえいしんぼくかい)」を通じて皇室との交流を続けました。平成になってから...
【十一宮家物語〈第九回〉】「皇族の養子縁組」の意義と皇室の現状 政府の有識者会議が初めて公式に取り上げた「皇族の養子縁組」の可能性 ―「皇位継承の流れをゆるがせにしない」ための皇族数の確保へ―
宮田修一(ジャーナリスト)政府の皇位継承有識者会議が令和3年7月下旬、皇族数の確保策として、「内親王・女王(じょおう)が結婚後も皇族の身分を保持する案」と並んで、「皇族の養子縁組を可能にして旧宮家の男系男子を皇族とする案」を取り上げたことが...
【十一宮家物語〈第八回〉】賀陽宮(かやのみや)家と竹田宮(たけだのみや)家 軍人皇族から皇籍離脱した賀陽宮家当主は掌典長、 竹田宮家当主はJOC委員長も ―竹田宮家の初代当主は明治天皇の皇女をお妃に迎えて―
宮田修一(ジャーナリスト)皇籍離脱した11宮家のうち、今回取り上げる賀陽宮(かやのみや)家は久邇宮(くにのみや)家から分かれて創設され、2代恒憲(つねのり)王は戦後、宮中祭祀(きゅうちゅうさいし)の掌典長(しょうてんちょう)も務めました。北...
【十一宮家物語〈第七回〉】東久邇宮家 久邇宮家初代当主の王子である稔彦(なるひこ)王が創設した新宮家、 終戦直後には皇族内閣を率い ―東久邇宮家の妃に二代続けて明治天皇と昭和天皇の皇女―
宮田修一(ジャーナリスト)昭和22年10月14日に皇籍離脱を余儀なくされた11宮家のうち、久邇宮(くにのみや)家から分かれて明治39(1906)年に創設されたのが東久邇宮(ひがしくにのみや)家です。宮家当主の稔彦(なるひこ)王が明治天皇の皇...
【十一宮家物語〈第六回〉】久邇宮家 宮家創設の親王は幕末政争で蟄居(ちっきょ)・幽閉され伊勢神宮祭主にも、軍人皇族の二代当主は皇太子妃の父に ―皇籍離脱で「久邇」家となって続き、現当主は伊勢神宮の大宮司も―
宮田修一(ジャーナリスト)昭和22年10月14日、11宮家の51人の皇族方は、それぞれの宮家名を新しい「氏(姓)」にして皇籍を離脱されました。皇后(香淳皇后)の実家である久邇宮(くにのみや)家や天皇(昭和天皇)の皇女成子(しげこ)内親王の嫁...
【十一宮家物語〈第五回〉】皇族としての地位を退いた11宮家のそれぞれの歴史を振り返る ―各宮家は宮号から「氏」を採って歴史を継ぐも直系が絶えた家も―
宮田修一(ジャーナリスト)「実に申しにくき事なれども、何とぞこの深き事情をおくみとりくだされたい」。昭和天皇は皇籍離脱(こうせきりだつ)を控えた皇族方に向けてこうお言葉を発せられました。昭和22年10月14日、南北朝時代に始まった伏見宮家を...
【十一宮家物語〈第四回〉】皇位継承の有資格者として昭和22年の皇籍離脱まで皇室を支えた11宮家 ―伏見宮家から分かれ明治天皇とも昭和天皇とも血縁で結ばれた宮家も―
宮田修一(ジャーナリスト)幕末・維新を経て明治39年までの約40年間に新設された宮家は久邇宮(くにのみや)家、賀陽宮(かやのみや)家、竹田宮(たけだのみや)家、東久邇宮(ひがしくにのみや)家など9宮家に及びました。そして、昭和22年10月の...
【十一宮家物語〈第三回〉】内外情勢がひっ迫する中、幕末から明治に新宮家が立て続けに誕生 ―孝明天皇と明治天皇の勅許で伏見宮家から分かれ―
宮田修一(ジャーナリスト)伏見宮(ふしみのみや)家は、江戸初期に2代続けて天皇の内親王(ないしんのう)を当主の妃に迎え、中期には皇子を当主に迎えるなど皇統と近い血縁関係を維持して来ました。幕末になると孝明天皇は四親王家(四宮家)の先細りを心...
【十一宮家物語〈第二回〉】皇統断絶の危機を救った伏見宮(ふしみのみや)家 ―南北朝時代に創設―
宮田修一(ジャーナリスト)GHQの圧力によって昭和22年(1947)に皇籍離脱に追い込まれた11宮家は、南北朝時代に始まった伏見宮家から分かれて創設されました。その伏見宮家は代々の当主が天皇から親王の身分を与えられる世襲親王家という特別な存...
【十一宮家物語〈第一回〉】新憲法下でも皇位継承権を有していた11宮家の存在 ―GHQの経済的圧迫と「戦犯」指名で天皇の藩屏(はんぺい)たる地位を追われ―
宮田修一(ジャーナリスト)新憲法が施行されて5ヶ月後の昭和22(1947)年10月14日、天皇の藩屏(はんぺい)としての役割を担ってきた11宮家の皇族51方が皇籍を離脱しました。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、宮家への歳費支出を打ち...