私たちは、皇室の伝統的な男系継承を確保する「養子案」の早期実現を求める活動を進めています

【十一宮家物語〈第九回〉】「皇族の養子縁組」の意義と皇室の現状 政府の有識者会議が初めて公式に取り上げた「皇族の養子縁組」の可能性 ―「皇位継承の流れをゆるがせにしない」ための皇族数の確保へ―

国民の声
国民の声
宮田修一(ジャーナリスト)
政府の皇位継承有識者会議が令和3年7月下旬、皇族数の確保策として、「内親王・女王(じょおう)が結婚後も皇族の身分を保持する案」と並んで、「皇族の養子縁組を可能にして旧宮家の男系男子を皇族とする案」を取り上げたことが注目されています。本連載では昭和22年に皇籍離脱(こうせきりだつ)を余儀なくされた十一宮家について、その歴史や離脱の経緯などに触れてきましたが、今回は、「皇族の養子縁組」が現実味を帯びてきたことを受け、宮家を中心に現在の皇室の現状も確認しておきたいと思います。

眞子内親王の幸せを祈りつつも

 はじめに眞子内親王がご結婚によって皇籍を離れられたことに触れたい。筆者はちょうど30年前の今頃、宮内庁病院前で母の紀子妃殿下に抱かれて退院される様子を間近で取材した。当時の天皇皇后両陛下が初孫の誕生をことのほか喜んでおられたことも記憶に残っている。ご結婚については、国民の間にさまざまな思いがあるのは承知しているが、個人的には、末永く幸せに暮らしていかれることを祈りたい。

 ただ、今回のご結婚に至る騒動は、有識者会議が皇族数を確保するもう一つの解決策として取り上げた女性皇族による「結婚後の皇族身分の保持」について、それが大きな問題を孕(はら)んでいることを示唆(しさ)しているようにも思う。「女性宮家」を含め仮に女性皇族が結婚して皇室に残ることになった場合、さまざまな問題が起きうることを、多くの人が「想像」できるようになったのではないだろうか。

有識者会議の「整理の方向性」

 政府の有識者会議(座長・清家篤元慶應義塾長)は令和3年7月下旬、皇位継承(こういけいしょう)に関する中間報告である「整理の方向性」をまとめた。「今上陛下から秋篠宮皇嗣殿下、次世代の悠仁親王という皇位継承の流れをゆるがせにしてはいけない」とした上で、「当面は皇族数の確保を図ることが喫緊の課題ではないか」としている。

 その具体的方策として

①内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とすること
②皇族の養子縁組を可能とすることで、皇統に属する男系の男子が皇族となること

が考えられるとした。皇統に属する男系男子とは、皇籍離脱した旧宮家の子孫の男子のことである。また、「皇統に属する男系男子を法律により直接皇族にする」ことについても、①②で十分な皇族数が確保できない場合に検討するべきとした。有識者会議が初めて「皇族の養子縁組」を公式に取り上げたことの意義は極めて大きい。有識者会議の議論はいったん中断され、現在は政府の事務局が具体策を求めて調査・研究に入っている(編注:本稿執筆時点では事務局の調査・研究中であったが、令和3年11月30日に有識者会議が再開され、令和3年12月22日に最終報告が決定された)。

両殿下お二人だけの常陸宮(ひたちのみや)家

 今回はこの機会に、現在の皇室がどのように構成されているかについても宮家を中心に取り上げることにした。ただし内廷(ないてい)の方々と秋篠宮家については系図だけにとどめた。内廷とは元々、天皇とそのご家族のいらっしゃる場所を意味しており、皇室経済法に出て来る「内廷費」は、現在の皇室では天皇皇后両陛下と愛子内親王、上皇上皇后両陛下を対象にしている。

現在の皇室の構成

 最初は常陸宮(ひたちのみや)家である。正仁(まさひと)親王は昭和天皇の第2皇子で上皇陛下の弟にあたり、現在85歳。皇位継承順位第3位で最年長の皇位継承資格者である。日本肢体不自由児協会など多くの団体の総裁を務められる。最近は宮中行事やご公務などには車椅子で出席されている。学習院大理学部化学科を卒業し東大大学院の研究生になって動物学を学ばれた。昭和39年に旧津軽伯爵家の華子妃とご結婚、常陸宮家を創設された。お二人にお子さまはない。

平成に断絶した秩父宮(ちちぶのみや)・高松宮(たかまつのみや)家

 日本国憲法の施行から約5ヶ月後の昭和22年10月14日、GHQによって11宮家が皇籍離脱(こうせきりだつ)を余儀なくされ、昭和天皇のご兄弟で大正天皇の皇子(おうじ)である三直宮(じきみや)だけは宮家として残された。年代は常陸宮家と前後するが、その秩父宮(ちちぶのみや)家、高松宮(たかまつのみや)家、三笠宮(みかさのみや)家について述べたい。

 秩父宮雍仁(やすひと)親王は大正9年に陸軍士官学校に入り、20歳の成年式を経て「秩父宮家」を創設された。お子さまはなく、戦後の昭和28年に50歳で薨去(こうきょ)。勢津子妃も平成7年に薨去されて宮家は断絶した。弟の高松宮宣仁(のぶひと)親王は、四親王家の一つの有栖川宮(ありすがわのみや)家の祭祀を継ぐため、わずか8歳で高松宮(有栖川宮家の旧宮号)の宮号を与えられた。海軍兵学校を卒業後の昭和5年(1930)年に徳川慶喜の孫である喜久子妃とご結婚。お子さまはなく、昭和62年に82歳で薨去。喜久子妃が平成16年に薨去され、宮家は断絶した。

旧寬仁(ともひと)親王家は女王がお二人

 昭和天皇の末弟である三笠宮崇仁(たかひと)親王は昭和11年、陸軍士官学校在学中に成年式を迎えて宮家を創設。戦後は日本オリエント学会の会長を務めるなどして、平成28年に満100歳で薨去(こうきょ)された。百合子妃は現在98歳で、皇族の最年長でいらっしゃる。

 崇仁親王の長男の寬仁(ともひと)親王は、宮号を賜(たまわ)らず事実上の宮家である「寛仁親王家」の当主として独立。食道ガンなどの闘病を経て平成24年、66歳で薨去された。寛仁親王家という名称はなくなり、信子妃とお二人の女王(じょおう)は、百合子妃が当主となっている三笠宮家に属されている。長女で39歳の彬子(あきこ)女王は三笠宮記念財団総裁や大学の特別教授などを務められ、10月下旬に38歳になる妹の瑶子(ようこ)女王は、日赤勤務を経て友愛十字会総裁などに就かれている。

高円宮家は女王がお一人に

 崇仁親王の次男の宜仁(よしひと)親王は三笠宮家から独立して独身のまま「桂宮家」を創設。ご病気で倒れてからは車椅子生活が続き、平成26年に66歳で薨去(こうきょ)された。独身でお子さまはなかった。

 三男の憲仁(のりひと)親王は三笠宮家から独立して「高円宮(たかまどのみや)家」を創設され、久子妃とご結婚。日本サッカー協会の名誉総裁などを務められた。平成14年に47歳の若さで薨去された。現在の宮家は久子妃が当主。35歳になる長女の承子(つぐこ)女王は日本ユニセフ協会に勤務され、全日本アーチェリー連盟の名誉総裁などに就かれている。次女の典子(のりこ)女王は平成26年に出雲大社の「千家(せんげ)」家に嫁いで皇籍を離れ、三女の絢子(あやこ)女王は平成30年に民間会社勤務の男性と結婚して皇籍を離れられた。

 

当連載は「皇室の伝統を守る国民の会」をご支援頂いている日本会議が発行する『日本の息吹』上で、令和3年3月号~令和3年12月号に掲載された論文を、許可を頂き当会ホームページに掲載しています
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