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【十一宮家物語〈第七回〉】東久邇宮家 久邇宮家初代当主の王子である稔彦(なるひこ)王が創設した新宮家、 終戦直後には皇族内閣を率い ―東久邇宮家の妃に二代続けて明治天皇と昭和天皇の皇女―

国民の声
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宮田修一(ジャーナリスト)
昭和22年10月14日に皇籍離脱を余儀なくされた11宮家のうち、久邇宮(くにのみや)家から分かれて明治39(1906)年に創設されたのが東久邇宮(ひがしくにのみや)家です。宮家当主の稔彦(なるひこ)王が明治天皇の皇女、長男の盛厚(もりひろ)王が昭和天皇の皇女と、宮家は二代にわたって内親王(ないしんのう)をお妃に迎えました。稔彦王は終戦直後、昭和天皇の信任を得て歴史上初めての皇族内閣を率い、わずか二ヶ月の短命内閣ではありましたが、降伏文書の調印などの終戦処理にあたりました。

東久邇宮(ひがしくにのみや)家

稔彦(なるひこ)王の兄も宮家の初代当主に 皇族軍人としてフランスに留学

 東久邇宮(ひがしくにのみや)家を創設した稔彦(なるひこ)王は、前回取り上げた久邇宮(くにのみや)家の初代朝彦(あさひこ)親王の第九王子として明治20(1887)年に誕生。生後すぐに京都郊外の名家に里子に出され、農家の子どもたちともに育った。兄には賀陽宮(かやのみや)邦憲(くにのり)王、久邇宮家を継いだ邦彦(くによし)王、梨本宮(なしもとのみや)守正(もりまさ)王、朝香宮(あさかのみや)鳩彦(やすひこ)王という各宮家の当主となった方々がいる。学習院初等科の学友には有島武郎(たけお)の弟で小説家の里見弴(さとみとん)もいた。

 学習院を経て陸軍幼年学校(二年制)を卒業し、明治39年に18歳で東久邇宮家の初代当主となった。続いて陸軍士官学校・陸軍大学校を卒業し、大正4(1915)年に明治天皇の皇女である聡子(としこ)内親王と結婚。その後、3年間の予定でフランスに留学しフランス陸軍大学校を卒業したが、滞在延期を申し出て政治法律学校で学んだ。滞在は7年に及び、現地では「東伯爵」と呼ばれて自由な時間を過ごし、現地での自由主義者との交流もあった。大正天皇の崩御(ほうぎょ)で帰国後は臣籍降下(しんせきこうか)や軍籍離脱を申し出たことがあったが、アメリカの挑発による「日米戦争必然論」を唱え、これを回避する必要性を説いた。その後は陸軍航空本部長などを経て日中戦争に出征、大東亜戦争勃発とともに陸軍大将として防衛総司令部の総司令官に就いた。

「東久邇日記」が語る戦中戦後 日米開戦回避で総理就任期待も

 その稔彦王には、日米開戦が始まった昭和16(1941)年から敗戦直後の首相在任中までの日記をまとめた『東久邇日記』という著書がある。軍人皇族として関わった激動の時代を記録する貴重な近代史の資料でもある。日記は同年元旦の「『今年こそ、日支事変が終結し御稜威(みいつ)(筆者注:天皇のご威光)輝く平和がきて、わが国運がますますさかんならんこと』を祈る」などの記述で始まる。5月7日の項には、第一王子の盛厚(もりひろ)王と昭和天皇の第一皇女である照宮成子(てるのみやしげこ)内親王のご婚約が決まったことへの御礼を申し上げるため昭和天皇に拝謁(はいえつ)した際の様子が書かれている。同年4月に始まった日米交渉は難航しており、昭和天皇は、日米和平への期待と不安を示す次のような発言をされた。「先には、日ソ中立条約が成立し(中略)また一方では日米会談の交渉があり、これが成立すれば、日本の前途は明るくなるに違いないが、もし万一、この交渉が成立しない時は、日米関係はもっと危険な状態になり、あるいは日米戦争となるかもわからない」。

 日米開戦直前の昭和16年10月に近衛文麿内閣が東條英機陸軍大臣との対立で総辞職すると、後任の首相は重臣会議の推挙によって東條英機陸軍大臣に決まった。しかし、近衛をはじめ政府内では対米協調派の東久邇宮稔彦王を首相に推す声が強く、東條自身もこれに賛意を示したと言われる。陸軍出身の皇族内閣として陸軍強硬派を抑えて対米交渉を進めることへの期待があったからだ。しかし、重臣会議のメンバーである内大臣の木戸幸一の反対で一転して後継首相は東條陸相に決まった。背景には、万が一にも皇族が開戦や敗戦の責任を負うような事態に陥ることは避けたいとの木戸らの意向もあったと言われるが、真相は定かではない。

終戦の翌日に組閣の大命降下 皇族内閣が担った降伏文書調印

 そして昭和20(1945)年8月15日の終戦の玉音放送。翌16日、木戸内大臣から事前に稔彦王に対して「天皇陛下には、わが国民を救うためならば自分はどうなってもよろしい、という固い御決心を持っておられる」旨の説明があった。そして、昭和天皇は皇居・吹上御苑内の地下防空壕である御文庫(ごぶんこ)に於いて、鈴木貫太郎内閣の後継として稔彦王に次のように勅命(ちょくめい)を下された(大命降下)。「卿に内閣組織を命ず。帝国憲法を尊重し、詔書(しょうしょ)(終戦の詔書をさす)を基とし、軍の統制、秩序の維持に努め、時局の収拾に努力せよ」。稔彦王はその際のご様子について「私の見るところでは、陛下は連日の御心配におやつれになったようで、大変にお気の毒に思った」と記している。こうして東久邇宮内閣は翌8月17日に発足した。

 終戦翌日には、昭和天皇から他の軍人皇族にも重大な使命が与えられた。それは、日本がポツダム宣言を受諾した終戦の聖旨を各軍司令官に伝達することであった。陸軍大将の朝香宮鳩彦(やすひこ)王が南京の支那派遣軍総司令部、陸軍少将の閑院宮春仁(はるひと)王がサイゴンの南方軍総司令部など、そして陸軍中佐の竹田宮恒徳(つねよし)王が新京(長春)の関東軍司令部などにそれぞれ派遣された。

 東久邇宮内閣の当面の務めである降伏文書の調印は9月2日、東京湾内に停泊する米艦ミズーリ号上で行われた。その約一週間後、稔彦王は首相として伊勢神宮、神武天皇陵及び橿原(かしはら)神宮、明治天皇・昭憲皇太后の桃山御陵、熱田神宮を参拝するとともに戦災跡を視察した。しかし、経緯は省くが東久邇宮内閣は10月5日に総辞職し、終戦処理内閣としての使命はわずか54日で終了した。

長男の盛厚(もりひろ)王は今上天皇の伯父

 その後、自ら皇族の身分を離脱する意向であることを表明するなどしたが、結局はGHQの圧力で昭和22(1947)年10月14日、他の各宮家の皇族とともに皇籍を離脱、以後は東久邇姓を名乗った。その後は波乱万丈の人生を送り、平成2(1990)年に102歳で亡くなった。

 一方、長男の盛厚王は陸軍士官学校を出て、陸軍将校として日ソ国境紛争のノモンハン事件で戦地に派遣された。前述したように、昭和18(1943)年に昭和天皇の第一皇女である成子内親王(照宮)と結婚した。皇籍離脱後は、東大経済学部で聴講生として学び、帝都高速度交通営団(現在の東京メトロ)監事などを務めた。昭和36(1961)年に亡くなった成子内親王(東久邇成子)との間に三男二女がある。その後、再婚して二人の男子が生まれたが、昭和44(1969)年に52歳の若さで亡くなった。

 

当連載は「皇室の伝統を守る国民の会」をご支援頂いている日本会議が発行する『日本の息吹』上で、令和3年3月号~令和3年12月号に掲載された論文を、許可を頂き当会ホームページに掲載しています
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