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【十一宮家物語〈第五回〉】皇族としての地位を退いた11宮家のそれぞれの歴史を振り返る ―各宮家は宮号から「氏」を採って歴史を継ぐも直系が絶えた家も―

国民の声
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宮田修一(ジャーナリスト)
「実に申しにくき事なれども、何とぞこの深き事情をおくみとりくだされたい」。昭和天皇は皇籍離脱(こうせきりだつ)を控えた皇族方に向けてこうお言葉を発せられました。昭和22年10月14日、南北朝時代に始まった伏見宮家をはじめとする11宮家の方々は、万感の思いを胸に皇族としての地位から退きました。シリーズ5回目となった今回は、皇籍離脱当時の11宮家を一覧で確認できるよう簡略化した系図を載せました。

皇籍離脱時の11宮家(系図)

伏見宮家が皇統を救った事実 閑院宮創設は新井白石の建言

 昭和22(1947)年10月14日、昭和天皇の弟である三直宮(じきみや)(秩父宮、高松宮、三笠宮)を除く11宮家(男女51方)が皇籍(こうせき)を離れた。シリーズの第1回で述べたように、GHQによる「皇族の財産上その他の特権廃止に関する指令」などによって各宮家は歳費支出の打ち切りや財産税賦課などの圧迫を受けて皇籍離脱を余儀なくされ、宮号を一般国民と同じように「氏(姓)」に変えた。

 南北朝時代から続いてきたのが伏見宮(ふしみのみや)家(皇籍離脱時当主・24代博明(ひろあき)王)。第3代当主の9歳の王子である彦仁王が、皇嗣(こうし)のないまま若くして崩御(ほうぎょ)された称光天皇の跡を継いで第102代後花園天皇に即位された。今から590年前に伏見宮家が皇統を断絶から救い、その皇統が今日の皇室に連なっているという事実をあらためて銘記しておきたい。

 伏見宮家から分かれ、現在の皇室に直接つながるのが江戸時代中期に第113代東山天皇の第6皇子である直仁親王が創設した閑院宮(かんいんのみや)家(同・7代春仁(はるひと)王)。皇統の断絶を危惧した6代将軍徳川家宣(いえのぶ)の侍講(じこう)新井白石が、将軍家の御三家のように朝廷にも皇位を補完する新たな宮家が必要であるとの建言(けんげん)を将軍に出して宮家創設に至ったことは良く知られている。同宮家の第2代典仁(すけひと)親王の第6王子である兼仁(ともひと)親王が第119代光格天皇に即位され、以降、今上天皇(第126代)まで直系で続いているのである。

 同宮家は5代当主に後嗣(こうし)がなかったため、明治初年に伏見宮家20代当主である邦家親王の王子がこれを継承した。皇籍離脱後の春仁(はるひと)王は閑院純仁(すみひと)と改名、昭和63年(1988)に後嗣ぎのないまま亡くなった。

明治天皇の皇女が4宮家に 昭和天皇皇女は東久邇宮家に

 久邇宮(くにのみや)家(同・3代朝融(あさあきら)王)は、2代当主邦彦(くによし)王の長女である良子(ながこ)女王が皇太子だった昭和天皇のお妃となられた。崩御(ほうぎょ)されて香淳(こうじゅん)皇后と追号された。邦昭王として18歳で皇籍離脱した現当主の久邇邦昭氏は元皇族の長老で、伊勢神宮大宮司や旧華族の親睦団体「霞(かすみ)会館」の理事長などを務めた。

 山階宮(やましなのみや)家(同・3代武彦王)の宮号は京都の「山科(やましな)」の地名に由来する。山階宮家の2代当主菊麿王の王子芳麿(よしまろ)王(臣籍降下して侯爵)は鳥類学者で、山階鳥類研究所(現総裁・秋篠宮皇嗣殿下)を創設した。

 北白川宮(きたしらかわのみや)家(同・5代道久王)は、3代当主成久(なるひさ)王が明治天皇の皇女房子(ふさこ)内親王をお妃に迎えた。4代当主永久王の祥子(さちこ)妃は戦後、皇后(香淳皇后)の女官長などを務めた。伏見宮家から分かれて創設された梨本宮(なしのもとのみや)家(同・3代守正王)は、久邇宮家の守正王が3代当主を継いだ。戦前には神宮祭主を務め、敗戦後は皇族として唯一「A級戦犯」として半年間、巣鴨プリズンに拘置された。GHQによる皇室全体に対する威圧のためと言われる。方子(まさこ)女王は、大韓帝国最後の皇太子で韓国併合後に日本の王族に列した李垠(イ・ウン)と結婚し、戦後は韓国で知的障害児施設を設立するなど福祉に尽力した。

 賀陽宮(かやのみや)家(同・2代恒憲王)は久邇宮家から分かれて設立。初代邦憲王は伊勢神宮の祭主。東伏見宮家(同・初代依仁(よりひと)親王)は、依仁親王が後嗣(こうし)の無いまま大正期に薨去(こうきょ)。一代で廃絶となったが、周子(かねこ)妃が皇籍離脱時まで皇族として事実上の当主を務めた。竹田宮家(同・2代恒徳(つねよし)王)は、初代恒久王が明治天皇の皇女昌子(まさこ)内親王をお妃に迎えた。現在の竹田家の当主は皇籍離脱直後に生まれた恒和(つねかず)氏でJOC会長などを務めた。

 朝香宮(あさかのみや)家(同・初代鳩彦(やすひこ)王)は、鳩彦王が明治天皇の皇女允子(のぶこ)内親王をお妃に迎えた。昭和7年(1932)に埼玉県膝折村(現朝霞市)は朝香宮殿下にちなんで名称を朝霞町に変更した。東久邇宮(ひがしくにのみや)家(同・初代稔彦(なるひこ)王)の稔彦王は敗戦直後に初の皇族内閣を組織して降伏文書調印や陸海軍の解体を行ったが、2か月で総辞職した。お妃は明治天皇の皇女聡子(としこ)内親王。

 昭和天皇の皇女で上皇陛下の姉にあたる成子(しげこ)内親王は、大戦末期、稔彦王の第1王子である盛厚(もりひろ)王に嫁がれた。

 

当連載は「皇室の伝統を守る国民の会」をご支援頂いている日本会議が発行する『日本の息吹』上で、令和3年3月号~令和3年12月号に掲載された論文を、許可を頂き当会ホームページに掲載しています
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