私たちは、皇室の伝統的な男系継承を確保する「養子案」の早期実現を求める活動を進めています

【十一宮家物語〈第六回〉】久邇宮家 宮家創設の親王は幕末政争で蟄居(ちっきょ)・幽閉され伊勢神宮祭主にも、軍人皇族の二代当主は皇太子妃の父に ―皇籍離脱で「久邇」家となって続き、現当主は伊勢神宮の大宮司も―

国民の声
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宮田修一(ジャーナリスト)
昭和22年10月14日、11宮家の51人の皇族方は、それぞれの宮家名を新しい「氏(姓)」にして皇籍を離脱されました。皇后(香淳皇后)の実家である久邇宮(くにのみや)家や天皇(昭和天皇)の皇女成子(しげこ)内親王の嫁ぎ先である東久邇宮(ひがしくにのみや)家などの一部の宮家を皇室に残す動きもありましたが実現はしませんでした。現在も男性の子孫がいらっしゃる旧宮家のうち、今号は久邇宮家を取り上げます。

久邇宮(くにのみや)家

久邇宮家を創設した朝彦(あさひこ)親王 幕末維新の歴史を駆け抜けて

 久邇宮家は伏見宮家第20代当主の邦家親王の王子である朝彦(あさひこ)親王が創設した。文政7(1824)年に生まれ、早くに仏門に入った、明治天皇の祖父にあたる第120代仁孝天皇の猶子(ゆうし)(養子)となって親王位を与えられた。嘉永五(1852)年に天台座主(てんだいざす)(天台宗の総本山である比叡山延暦寺の最高位)となって朝議(ちょうぎ)に参加するなど政治に深く関与。尊皇攘夷の立場で幕府を批判し「安政の大獄」では隠居永蟄居を命じられた。

 桜田門外の変で復帰して還俗(げんぞく)すると、公武合体派の領袖(りょうしゅう)として第121代孝明天皇の下で朝廷内の尊王攘夷派追放に奔走。孝明天皇が崩御(ほうぎょ)されて元号が明治になると、徳川慶喜に密使を送るなどの陰謀を企てたとして親王位を剥奪され幽閉された。

 その後、赦(ゆる)されて出身の伏見宮家に復帰。明治8(1875)年に久邇宮家を創設した。直後に伊勢神宮の祭主となり明治24(1891)年まで務めた。仏教宗派の元トップが神宮の祭主を務めるという異例の就任であった。祭主就任中の明治15(1882)年には、皇學館大学(三重県伊勢市)の母体となった神官養成学校「神宮皇學館」を設立した。朝彦親王が書き残した『朝彦親王日記(あさひこしんのうにっき)』は幕末維新の貴重な史料として知られ、当時の重要人物として映画やテレビドラマにも登場する。明治24(1891)年に68歳で薨去(こうきょ)。

生涯軍人の第2代当主邦彦王 宮中(きゅうちゅう)某重大事件で皇后に上奏

 久邇宮家第2代当主は朝彦親王の第3王子で、明治6(1873)年7月誕生の邦彦(くによし)王。父の朝彦親王は長子が生後間もなく夭逝(ようせい)したため第2子の邦憲(くにのり)王を継がせる予定だったが、病弱だったため弟の邦彦(くによし)王を後嗣(こうし)にした。後嗣を外れた兄の邦憲王はその後、賀陽宮家を創設。弟たちは守正(もりまさ)王が梨本宮家(第3代当主)を継ぎ、鳩彦(やすひこ)王が朝香宮家を創設。さらに稔彦(なるひこ)王が東久邇宮家を創設した。

 邦彦王は皇族の教育機関でもあった学習院を経て成城学校(現成城中学、成城高校)を卒業し、陸軍士官学校に進んだ。成城学校在学中に父朝彦親王の薨去(こうきょ)を受けて宮家を継承。陸軍大学校を卒業して明治37(1904)年には日露戦争に出征した。連隊長や近衛師団長などを経て大正12(1923)年に陸軍大将に昇進。昭和4(1929)年に薨去して元帥の称号を与えられた。

 明治32(1899)年に薩摩藩の最後の藩主だった島津忠義の娘俔子(ちかこ)と結婚。3人の王と2人の女王をもうけた。宮内省は大正8(1919)年6月、第一王女の良子(ながこ)女王が皇太子裕仁(ひろひと)親王のお妃に内定した旨、発表した。ところが、良子女王の家系に色覚異常の遺伝があるとして翌大正9(1920)年に元老山縣有朋が宮内大臣を事実上更迭。同じ元老の西園寺公望、松方正義とともに久邇宮家に対して婚約辞退を迫った。

 これに対して皇太子(昭和天皇)の倫理学の教授で、お妃教育も担当した杉浦重剛(じゅうこう)らが人倫にもとるとして反発、父親の邦彦王も貞明皇后に上奏書を出すなどして政界を巻き込む騒ぎとなり、一部の新聞が「宮中某重大事件(きゅうちゅうぼうじゅうだいじけん)」との表現で間接的に報じた。騒動は世間に広く知られるところとなり、大正10(1921)年に原敬首相が中心となって事態収集に動き、政府は「良子女王東宮妃御内定の事に関し世上種々の噂あるやに聞くも右御決定は何等変更せず」との発表を行った。ご成婚は大正12(1923)年9月の関東大震災で延期され、翌年1月に儀式が執り行われた。

皇籍離脱の当主は3代朝融(あさあきら)王 元少年皇族が見た皇籍離脱

 久邇宮家第3代の朝融(あさあきら)王は明治34(1901)年2月に誕生。良子女王(香淳皇后)の兄である。伏見宮家23代当主で海軍軍令部総長を務めた博恭(ひろやす)王の第3女子である知子(ともこ)女王と結婚した。海軍兵学校を出て海軍中将として敗戦を迎えた。昭和22(1947)年10月14日、他の宮家とともに皇籍を離脱し、「久邇(くに)」の姓を賜った。各皇族には国会の議決を経て一時金が渡されたが、軍籍にあった皇族は対象から外された。

 夫人の知子女王はその数ヶ月前に懐妊中に亡くなっており、皇籍離脱時には3人の男子(邦昭(くにあき)王、朝建(あさたけ)王、朝宏(あさひろ)王)と4人の女王がいた。長男の邦昭(くにあき)王は海軍兵学校在学中に敗戦を迎え、皇籍離脱時は18歳だった。民間企業の役員などを経て伊勢神宮の大宮司や神社本庁統理、旧華族の親睦団体である霞会館(かすみかいかん)理事長も務めた。現在の久邇家当主で、旧皇族の長老でもある。

 その邦昭氏が著書『少年皇族の見た戦争』で、加藤進宮内府次長が皇籍離脱直前の衆院予算委員会で「今回皇族の列を離脱せらるべき十一の宮家の大人の方が、ほとんど全部皇族の列を離れる希望を表明された」と発言したことについて、慎重な言い回しながら次のように記している。

「ちょっと言い過ぎと思われる。当時のGHQ(連合軍総司令部)の意向の尊重、その方向に向かわせようとの考えが裏にあったと言えるやも知れず、またそれは当然であったのかもしれないが」

「皇籍離脱に賛成した皇族の方々には、当時の状況からして抗しきれないのは明白だから、ならば自発的にという思いもあったのかもしれない」。

少年皇族の見た戦争 | 久邇邦昭著 | 書籍 | PHP研究所
皇族として生まれて海軍兵学校に学び、戦後、一企業人を経て、伊勢神宮宮司を務めた著者が、皇族、戦争、日本のことを綴る珠玉の書。

 

当連載は「皇室の伝統を守る国民の会」をご支援頂いている日本会議が発行する『日本の息吹』上で、令和3年3月号~令和3年12月号に掲載された論文を、許可を頂き当会ホームページに掲載しています
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