皇統護持のために今、私たちが心すべきこと
安倍元総理の発言をめぐって
安倍元首相が亡くなられて早いもので、もう1年と3カ月になりますけれども、昨年3月、安倍元首相がお亡くなりになるちょうど百日前、日本会議国会議員懇談会の総会がございまして、安倍さんが挨拶をされたのですが、その中で話されたことが今でも強く印象に残っております。
安倍元首相は、皇位継承に関する先般の有識者会議の提言を紹介される中で、「伏見宮家から養子を迎えることができる」という意味のことを仰ったように記憶しているのです。私はそのときに「おやっ」と思ったことを今でもよく覚えているのですね。
安倍元首相がなぜそう仰ったのかということは、後でまた申し上げたいと思います。
2つの有識者会議の報告書
さて、一昨年12月22日に政府の有識者会議が安定的な皇位継承策を維持するための最終的な報告書を、当時の菅首相に提出いたしました。実は今から15年ほど前、小泉首相の時代にも有識者会議が設けられて、その有識者会議は女性天皇に賛成しただけでなく、女系天皇をも容認する報告書を出したのですね。
しかし、「女系天皇」は2千年の日本の歴史の中で一度たりとも前例がない、全く初めてのケースでありまして、女系の天皇を果たして天皇と呼べるのかという議論もございます。
小泉内閣の有識者会議は、その歴史上一度も存在しなかった女系天皇を容認したわけですから、このときには国中が上を下への大騒ぎになりまして、国論が二分しました。今回の報告書は、その15年前の報告書とは全く逆です。
「皇統に属する男系の男子」とはどういう御方か
報告書は3つの提言をしたのですが、重要なのは次の2つです。
一つは皇族には認められていない養子縁組を可能とし、皇統に属する男系の男子を皇族とすること。もう一つは皇統に属する男系の男子を法律により直接、皇族とすることで、この「皇統に属する男系の男子」というのは、70年前に皇籍を離脱して、今は民間人になっている旧皇族・旧宮家の方々及びその子孫を指している言葉なのです。
皇室典範(こうしつてんぱん)第一条は、皇位継承について次のように定めています。
「皇位は皇統に属する男系の男子がこれを継承する」
つまり、皇位継承の有資格者は「皇統に属する男子」に限られますが、今の皇室には、今上天皇と皇嗣殿下、悠仁親王殿下、常陸宮殿下のお4方しか「皇統に属する男系の男子」はおられません。
そこで、有識者会議の報告書は70年前に皇籍を離脱された旧皇族・旧宮家の方々の子孫にもう一度皇籍(こうせき)に復帰していただこうと。その方法として、今ある宮家に養子として入っていただく方法が一つ。もう一つは直接法律で旧皇族の方々を皇族に戻すという方法。この2つを有識者会議は提言したのです。
「宮家」「旧宮家」とは何か
さて、ここで宮家とは何かということについて触れておきたいと思います。
宮家というのは、「皇統が行き詰まったときに、そこから天皇を出せる皇族の家」のことを言うのですね。わかりやすいところでいうと、秋篠宮がそうです。天皇陛下に男のお子さんがおられない場合に、宮家から次の天皇を立てることができるわけです。
終戦時の日本には14の宮家が存在していました。宮家といいましても、直宮家(じきみやけ)と旧宮家(きゅうみやけ)の二つに分かれます。直宮家というのは、天皇の御子や兄弟が創設した宮家で、当時は昭和天皇の弟宮が立てた3つの宮家がありました。秩父宮(ちちぶのみや)、高松宮(たかまつのみや)、三笠宮(みかさのみや)です。
そしてもう一つがそれ以外の11宮家―朝香宮(あさかのみや)、賀陽宮(かやのみや)、閑院宮(かんいんのみや)、東伏見宮(ひがしふしみのみや)、北白川宮(きたしらかわのみや)、久邇宮(くにのみや)、梨本宮(なしもとのみや)、山階宮(やましなのみや)、竹田宮(たけだのみや)、東久邇宮(ひがしくにのみや)、伏見宮(ふしみのみや)、ということになります。
これが旧皇族、あるいは旧宮家と呼ばれる方々です。昭和22年に皇籍を離脱したため、現在はこの11宮家は存在していませんが、終戦当時、全部で51名、そのうち皇位継承権をお持ちの男子は26名いらっしゃいました。
この11宮家は、直宮家とは血筋が遠く離れているということがよく言われます。確かに、昭和天皇の弟君ばかりの直宮家と残りの宮家を比べると、血統的には非常に離れていることは事実ですが、2つの点において、今の天皇家と共通点がございます。
その第一は、初代神武(じんむ)天皇の血を男系で継承しているということです。皇籍を離脱されたので、今は皇位継承権はありませんが、血統的に「皇統に属する男系の男子」であるということは事実ですので、有識者会議はこの方々にもう一度皇籍に復帰していただこうという提案をしたわけであります。
共通点の第二は、明治天皇の皇女が次々と旧宮家に嫁がれたり、昭和天皇と婚姻関係を結んだことにより、今の皇室と親戚関係にある宮家が多いということです。皇族と旧皇族は菊栄親睦会(きくえいしんぼくかい)という組織を通じて、今も定期的に交流を続けておられます。
ですから、旧宮家・旧皇族というと、70年前に皇籍を離脱された方で、今さら皇族には戻れないと錯覚している人もいるようですが、それは全くの誤解です。
この11宮家の方々が占領下で皇籍離脱を余儀なくされたのは、占領軍の圧力の結果でした。占領軍は11宮家の人々に対して、次のように言っています。
「天皇となるべき可能性の非常に少ない者まで皇族としておいて、これに皇族費を支出し、その反面、個人としての自由を束縛するのは、人間の本然の自由を不当に束縛するものである」と。
直宮以外の11宮家の皇族は天皇となる可能性が非常に低いというのは事実です。宮家の存在そのものが、皇統が絶える万一の場合に備えているわけですから、外国人には無用の長物と見えたのは致し方のないことかもしれません。
宮家の存在が、万世一系の皇統を守った
しかし、日本の歴史を見ますと宮家が存在したがゆえに、皇統の危機が回避され、それが現在の皇室までつながっているという事実が厳然としてあるわけです。
中世では一〇二代の後花園(ごはなぞの)天皇が、近世では一一九代の光格(こうかく)天皇がそうです。後花園天皇は伏見宮家の御出身であり、光格天皇は閑院宮家から天皇に立たれています。
中世にもし伏見宮という宮家がなかったら、或いは、近世に閑院宮家が存在しなかったら、今の皇室はありません。そのことの歴史の重みを考えれば、天皇となるべき可能性が非常に少ないからといって、「国費の無駄遣いだ」という占領軍の論理がいかに誤っているかがわかります。
ましてや「個人としての自由を束縛するのは、人間の本然(ほんねん)の自由を不当に束縛するものである」というのは、いかにもアメリカ人が考えそうなことですが、個人としての自由を束縛する結果になっても、皇統の危機を回避するためには、あえて不自由をお願いする。それが日本の歴史であり、また現にそうしてきたからこそ、日本の皇室は世界で唯一、万世一系を維持することができたのです。
ですから占領軍が直宮以外の11宮家を否定し、皇籍離脱を強要したことによって、皇統の危機の備えである旧宮家がなくなってしまった。この事こそが、今日の男系子孫の枯渇(こかつ)をもたらした直接の原因になっているわけです。
旧皇族の方々の皇籍復帰を自然なことと受け止める皇族の方々
70年前に皇籍を離脱した旧皇族の方々は、占領政策の犠牲になって皇籍を離脱せざるを得なかったわけですから、皇籍に復帰をしていただくことはある意味で当然のことです。
しかし、一部にはそのことを理解しない人々がいて、70年前に皇籍離脱されたのに今さら皇族に復帰するといっても、違和感があると言い募ります。
しかし、そういう人々に限って、実際に旧皇族を受け入れる立場にある今の皇族の方々がどう思われているかということは、一切閑却(かんきゃく)しています。
故寛仁(ともひと)親王殿下が次のように仰っています。
「皆さんが意外とご存知ないのは、我々現職の皇族と旧宮家の方々はすごく近しく付き合ってきたことです。それは先帝様のご親戚の集まりである『菊栄親睦会』をベースとして、たとえばゴルフ好きが集まって会を作ったりしています。また、お正月や天皇誕生日には、皇族と旧皇族が全員、皇居に集まって両陛下に拝賀(はいが)というご挨拶をします。最初に我々皇族がお辞儀をして、その後、旧皇族の方々が順番にご挨拶をしていく。ですから、[旧皇族の皇籍復帰は]我々には全く違和感などありません。」
(『皇室と日本人』)
ここからもわかるように、旧皇族の皇籍復帰というのは、今の皇族方には違和感など全くないのです。旧皇族の方々は、かつては同じ皇族仲間だった上に、今でも日常的に交流があるのですから、これは当然のことです。
何故このような認識のずれが生じたのか。そのことの理解のために、皇統にまつわる基本的なお話をしておきます。
江戸時代後期、閑院宮家から皇位を継承した光格天皇
そもそも宮家というのは皇統が危機に陥ったときに次の天皇を立てることのできる予備の家として設けられたということは、先程申しました。血のスペアという言い方をすることもありますが、天皇家とは別に、神武天皇の血筋を引く男系男子を傍系(ぼうけい)の宮家として立てておき、天皇家と並行してこれを代々世襲するのです。そうすると、天皇家の跡継ぎがいなくなって危機に陥ったときに、傍系から天皇を立てることができるのです。
例えば二百年前にもそういうことが起こりました。一一八代の後桃園(ごももぞの)天皇の後、皇統が一旦途絶えてしまうわけです。そこでどうしたかと言いますと、後桃園天皇から血筋の近いところで神武天皇と血のつながった方を探しました。
そうすると、一一三代東山天皇のご子孫に傍系の男系男子がおられるということが判りました。これが閑院宮家なのです。
江戸時代に新井白石が、宮家を新たに立てることを建言し、実現したのが閑院宮家でした。そのことが功を奏し、後桃園天皇の後に天皇として立つべき方がおられないときに、閑院宮のお一人であった兼仁(ともひと)親王が天皇として立たれました。これが第一一九代の光格天皇であります。
今の皇室はこの光格天皇の直系の子孫なのです。ところが、光格天皇御自身はそうではありません。一一八代の後桃園天皇と一一九代の光格天皇とは血筋の上では大きく離れており、大変遠い関係なのです。
閑院宮家は当時の皇室から見ると、傍系の宮家にすぎませんので、ある種の違和感があったのでしょう。それで光格天皇は、天皇に立たれた時はわずか10歳でありますが、周囲の皇族や公家からは白い目で見られるのです。そうした周囲の白い目に耐えながら、あるいは御自分は傍系であるという意識に苛(さいな)まれながら、それでも天皇として立派に成長されたのがこの光格天皇であります。
今ではちょっと想像もできないですよね。でも、200年前に立たれた今の皇室の直接のご先祖にある光格天皇は、実際に傍系だったのです。
光格天皇のお父さんは、閑院宮第二代の典仁(すけひと)親王ですが、この方は天皇ではありません。そのお父さんは閑院宮初代の直仁(なおひと)親王ですが、この方も天皇ではありません。しかし、神武天皇からずっと男系でつながっている、皇統に属する男系の男子ではあるわけです。
傍系の継承が皇統を繋いできた
このように、皇室の歴史を見ますと、皇統というのは必ずしも直系だけで皇位を継承してきたわけではありません。天皇の直系に当たるご子孫が絶えてしまったような場合は、このようにして皇統は直系から傍系に移行するのです。
例えば、現在の皇位継承順位は第一位が皇嗣殿下で、第二位が悠仁親王ですが、その後に皇位を継承できる直系の皇族が今のところおられないわけです。それで皇統の危機を迎えているというのが現状でありまして、そういう過去の歴史に照らせば、皇統が直系から傍系に移っても、それは全然不思議なことではない。過去の歴史にもたびたびあったことで、それでも一向に構わないのです。
なぜなら、直系だろうが傍系であろうが、初代神武天皇と男系でつながっているという一点においては全く同じだからです。「皇統に属する男系の男子」というのは、そういう意味であります。これが天皇を立てる際の大原則でありまして、その一番近い過去の実例は今申し上げた光格天皇なのです。
我々令和の国民は、今の皇室が実は200年前には閑院宮家という傍系の宮家から出たのだという事実をきれいさっぱり忘れています。今の皇室がずっと直系で継承されてきたように錯覚していますが、それはたかだかこの200年間のことでありまして、今の皇室自体が、実は閑院宮という傍系の血筋なのですね。
ですから皇位継承においては、その時々の皇室と血統的に近いということが、必ずしも絶対の条件ではありません。直系を何本かの傍系、すなわち宮家が支える形で、時には傍系が直系と入れ替わる形になっても、全体として神武天皇以来の皇統を男系で継承する。これが万世一系ということの本当の意味、本当の姿なのです。
皇位継承の基準は初代神武天皇
旧皇族の方々というのは、要するに、今お話しした傍系の宮家にあたるわけです。今の皇室から見れば傍系でありまして、血筋は遠く離れています。
どれだけ離れているかというと、今の皇室と11宮家の共通の祖先が系図の上で、どこで繋がるかといいますと、北朝第三代の崇光(すこう)天皇という方まで遡(さかのぼ)ります。
ここを捉えて、旧皇族というのは七百年も前に分かれた皇室の分家(ぶんけ)じゃないかといって批判をする人がいますが、私に言わせれば、そういう人は実際には直系を何本もの傍系で支えてきた皇統の歴史、万世一系の意味がよくわかっていないのです。
共通の祖先が遠い昔に遡(さかのぼ)るから天皇になるには相応しくないのだと言いますが、そうではないのですね。それは今の天皇を基準にして考えるからであって、皇位継承というのは、基準は初代の神武天皇にあるのです。
神武天皇の血筋を男系で継承していること。これが全てですから、今の皇室、今の天皇とどれほど血筋が離れていようが、本質的な問題ではないのです。そういう事例は皇統譜を見ますと他にも一杯あるわけです。
昭和天皇が創設された菊栄親睦会
では、昭和天皇はなぜ菊栄親睦会を創設されたのでしょうか。旧宮家は、皇位継承に行き詰まった時のバイパスなのですね。傍系というのはバイパスです。或いは一つの保険と言ってもいいかもしれません。皇位継承が行き詰まらないようにするための民族の知恵が、旧宮家なのです。
ですから、これを廃止してはいけなかったのです。けれども、これは占領下においては仕方がなかったわけです。当時は天皇の地位さえ危うかったわけですから。
しかし、そのことは皇統が行き詰まった時のバイパスを断ち切ることであったわけです。昭和天皇はそのことが解っておられたからこそ、旧皇族と皇族とのパイプを繋いでおかなければならないと強く思われたのだと思います。そうすれば、将来旧皇族の皇籍復帰ということもあり得ると、そこまで想定して創設されたのが菊栄親睦会だと思うのです。
11宮家が皇籍離脱をされた際、当時の宮内府次長の加藤進という人が11宮家の方々に対して、次のように進言しています。
「万が一にも皇位を継ぐべき時が来るかもしれないとの御覚悟の上で身をお慎みになっていただきたい」と。
私は、これは昭和天皇の意向を受けての発言だと思うのです。そうでなければ、皇籍を離脱してこれから一般国民になろうとする人々に向かって、「万が一にも皇位を継ぐべき時が来るかもしれないとの御覚悟」を促す必要が、どうしてあるのでしょうか。
それは血のスペアを失った戦後日本の皇統が、いつか行き詰まることがあるかも知れないということを見通した上での発言のようにしか思えないのです。
ですから、旧宮家のご子孫の皇籍復帰は、昭和天皇のご意志を受け継ぐことでもあるわけです。
占領下で一度失われた、皇位継承のための傍系というバイパスをもう一度通すのです。そうすれば近い将来、傍系による皇位継承が可能になります。
今のままでは、悠仁親王が数十年後に天皇にお立ちになる頃には、天皇の周りには男性皇族は誰もいなくなってしまいます。
その状態でもし悠仁親王に男のお子様が生まれなければ、神武天皇以来百二十数代男系で続いてきた万世一系の皇統は、それでおしまいです。我々の世代、我々の子や孫の世代でそういうことを許して、果たしていいのでしょうか。天皇のおられない日本、それはもう日本という国ですらありません。
旧皇族の方々のお覚悟について
ここでお二人の旧皇族の方の言葉を紹介したいと存じます。
お一人は竹田恒徳(つねよし)さんです。スポーツの宮様として有名だった方ですが、こう言われています。
「昭和22年10月、秩父、高松、三笠の三宮家を除くわれわれ十一宮家は、GHQの命令によって皇族の身分を離れることになった。10月18日、赤坂離宮でお別れの宴が催されたが、陛下は、「皇族の籍を離れても私は今まで同様に思っている。折にふれてくるように」とのお言葉を賜った。私はその時、身分は変っても、身をもって皇室を守る堅い決心をしたことを、昨日のように思い出す。」
(竹田恒徳『私の肖像画』)
竹田さんは身分が変わっても、身をもって皇室を守る固い決心をした。ですから、皇籍を離れて民間人になっても、その意識は皇族と少しも変らないということです。
もう一人は伏見家の当主の伏見博明氏です。この方は現在91歳ですが、今もご存命でありまして、占領下で皇籍を離脱した旧皇族の中では、最も皇位継承順位が高かった方です。昨年一月に回顧録を出されまして、その中で次のように述べておられます。
「戦前世代のわれわれは、…何かあった時は真っ先に皇室をお守りしなければいけないという、それなりの教育を受けてきました。それは先ほどの菊栄親睦会のメンバーも同じだと思います。」
「宮さまとして一時期育ってきたのは事実ですから、[皇籍に]復帰したとしても、その経験がない連中に比べれば楽ですよね。僕らであったら、また振り出しに戻るだけです。(笑)天皇陛下に復帰しろと言われ、国から復帰してくれと言われれば、それはもう従わなきゃいけないという気持ちはあります。」
「[今後の皇室について]心配していることはもちろんありますけれども、表だって口にすることはできませんよ。ただ、一つだけ挙げるとすれば、さっきも少し言いましたが、人は急に宮さまになれといわれて、なれるものではないということでしょう。」
(伏見博明『旧皇族の宗家・伏見宮家に生まれて』)
非常に含蓄(がんちく)のあるお話をされていますが、伏見宮というのは宮家の中でも一番古い家柄で、筆頭宮家に当ります。
その方が、「天皇陛下に復帰しろと言われ、国から復帰してくれと言われれば、それはもう従わなきゃいけないという気持ちはあります」と。
これは旧皇族を代表する最高位の方から発せられた、明確なメッセージだと思うのです。旧皇族の側でも皇籍復帰を想定した心の準備を既にされている。それに向けて既にスタンバイされているということではないでしょうか。
「伏見宮系」から養子に
安倍さんが亡くなる前に、「伏見宮家から養子を迎えることができる」という意味のことを仰っていたということを、最初に紹介しました。私がその時、おやっと思ったのは何故かといいますと、伏見家の当主である伏見博明氏には、男のお子さんはおられないのです。ですから、伏見家から養子を迎えると言っても、それはできない相談なのですね。
従って、旧宮家から養子を迎えるとすれば、悠仁親王と同世代の男系男子がいらっしゃる旧宮家に絞られます。
これらの旧宮家は全て伏見宮から枝分れしたもので、「伏見宮系」と呼ばれることもあります。私は改めて安倍さんの当日の録音テープを聞き直してみましたら、「伏見宮系から養子を迎えることができる」と仰っていたのです。
伏見宮系の旧皇族の中で、現時点で悠仁親王と年齢の近い未婚の男子は10名ほどおられます。東久邇家に6人、賀陽家に2人、久邇家に1人、竹田家も2人います。
一方、現存する4宮家のうち、秋篠宮以外の常陸宮、三笠宮、高円宮は宮家を継承する男子が不在です。ですから、将来的には絶家(ぜっけ)が確実視されています。
そこで、この3宮家のうちのどこかで、旧宮家の男系男子のどなたかを養子に迎えていただき、皇籍に復帰していただく。そうすれば、江戸時代に光格天皇が閑院宮から立たれたように、将来、そこから皇位継承が可能になるのです。
是非、皆さんと知恵を合わせて、そのようなことが可能になるように国民世論にも訴え、また、必要な法整備を整えていきたいと存じます。それが安倍元首相のご遺志に応えることだと思うのです。
(令和5年10月4日自民党群馬県連合会講演より)