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歴代の女性天皇について

参考資料・動画
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第3回皇室典範に関する有識者会議 平成17年3月30日(水)配付資料より

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資料3 歴代の女性天皇について(PDF)

歴代天皇系図(126代)
説明 初代神武天皇から126代今上天皇陛下までの歴代天皇系図(A3サイズ、2ページ)を作成しました。 この説明欄下のリンクよりダウンロード・複製・配付などして、ご自由にご活用ください(著作権は放棄しておりませんので改変しての再配付はご遠慮く...

概要

歴代の女性天皇

▽ 歴代の女性天皇は 10代 8方(2方は重祚)

<6世紀~8世紀>
①第33代 推古天皇(在位:592 年~628 年)
②第35代 皇極天皇(在位:642 年~645 年)
③第37代 斉明天皇(在位:655年~ 661年)〔皇極天皇が重祚〕
④第41代 持統天皇(在位:690 年~ 697 年)〔称制 686 年~ 689 年〕
⑤第43代 元明天皇(在位:707 年~715 年)
⑥第44代 元正天皇(在位:715 年~724 年)
⑦第46代 孝謙天皇(在位:749 年~758 年)
⑧第48代 称徳天皇(在位:764年~ 770年)〔孝謙上皇が重祚〕

<17世紀~18世紀>
⑨第109代 明正天皇(在位:1629年~1643年)
⑩第117代 後桜町天皇(在位:1762年~1770年)

歴代の女性天皇が即位した経緯等について

▽歴代の女性天皇が即位した経緯については、政権内における有力者の意向があったこと、皇位継承候補と目される男性皇族が複数存在したり、あるいは幼少であったりしたことなどから容易に皇位継承者を決定することができない状況にあったことなど、現在まで、様々な指摘がなされている。

▽いずれにしても、歴代の女性天皇の即位の経緯については、それぞれ当時の政治情勢等が密接に絡んでいると思われるなど、その実際の事情は複雑であると見られている。

▽歴代の女性天皇は、全て男系であり、寡婦か未婚である。

歴代の女性天皇それぞれの即位の経緯

1 推古天皇の即位の経緯(第33代、在位592年~628年)

▽当時の朝廷は蘇我馬子が大きな権勢を誇っており、それと対立した第 32代崇峻(すしゅん)天皇が592年に馬子の手の者によって暗殺されるという事件が起こった。

▽このような政治的に緊迫した重大事態にあって、男性の後継者としては、第30代敏達(びだつ)天皇の皇子である押坂彦人大兄(おしさかのひこひとのおおえ)皇子や第 31代用明天皇の皇子である廐戸皇子(うまやど)が存在したが、年長と見られる押坂彦人大兄皇子は非蘇我系であったことなどもあり、容易にまとまる状況にはなかった。(ただし、押坂彦人大兄皇子は既に薨去していたとする説もある。)

▽推古天皇は第29 代欽明天皇の皇女で、第30代敏達天皇の皇后であった。そして、敏達天皇崩御後も朝廷内で重きをなしていた。さらに母は蘇我氏であって、皇室と蘇我氏との協調関係を保って政治的安定を図るためにも最適であったことから、群臣により推戴されて592年に即位したものと見られる。

2 皇極天皇の即位の経緯(第35代、在位642年~645年)

▽第34代舒明天皇が 641年に崩御した後、当時権勢を誇っていた蘇我氏は、舒明天皇と蘇我氏の女性との間に生まれた古人大兄(ふるひとのおおえ)皇子の即位を望んだ。

▽しかしながら、皇位継承の有力候補として廐戸(うまやど)皇子の王子である山背大兄(やましろのおおえ)王がいたため、ひとまず舒明天皇の皇后である皇極天皇が即位したものと見られる。

▽このように、皇極天皇が即位した経緯には、容易に後継者を決定できなかったという状況と、蘇我氏の強い意向という事情があったものと思われる。

3 斉明天皇の即位の経緯(第37代、在位655年~661年)〔皇極天皇が重祚〕

▽第 36 代孝徳天皇が崩御したとき、皇位継承の有力候補としては皇極天皇の皇子で当時皇太子であった中大兄(なかのおおえ)皇子(後の天智天皇)がいた。しかし、他方で孝徳天皇の皇子の有間(ありま)皇子も有力であったこと、或いは、孝徳天皇と中大兄皇子との間に不和が生じた中で孝徳天皇が崩御したことなどから、中大兄皇子が即位することは、容易ではない状況にあった。

▽このようなことから、皇極天皇が655 年に再度即位(重祚)して斉明天皇となったものと見られる。

4 持統天皇の即位の経緯(第41代、称制686年~689年、在位690年~697年)

▽持統天皇は、第38 代天智天皇の皇女で、第40代天武天皇の皇后である。天武天皇在世中から、よく政治を助けていたという。

▽686年天武天皇崩御後、有力な皇位継承候補として、持統天皇所生の皇太子草壁皇子と、異腹の大津皇子がいたが、両者をめぐって朝廷内部には対立があった。そこで、争いを回避し、また自分の子でもある草壁皇子の即位を実現するために持統天皇が称制(先帝崩御の後、即位せずに国政をつかさどること)を行った。

▽その後、689 年に草壁皇子が薨去したため、草壁皇子の遺子(したがって持統天皇の孫になる)で当時なお幼少であった珂瑠皇子を将来皇位に即けかるることを考えて、690年に持統天皇が即位したものと見られる。

▽このように、持統天皇については、当初、容易に後継者を決定することができなかったという事情があり、さらに、自身の孫である珂瑠皇子の皇位継承を実現するために即位し、皇子が成長した後、697 年に譲位したもの
と見ることができる。

5 元明天皇の即位の経緯(第43代、在位707年~715年)

▽元明天皇は、草壁皇子の妃で、第 42 代文武天皇の母であり、持統天皇の異母妹である。

▽文武天皇が崩御したとき、その子の首(おびと)親王(後の聖武天皇)はわずか7歳であったため、天武天皇の年長の皇子たちを差し置いて即位することは年齢的に困難であったと見られる。

▽そこで、首親王が今後成長して皇位を継承するのを待つため、首親王の祖母に当たる元明天皇が即位したものと見られる。▽また、首親王の母の宮子は藤原氏であり、そこには外戚藤原氏の意向が働いていたと見られる。

6 元正天皇の即位の経緯(第44代、在位715年~724年)

▽第43代元明天皇は、即位後9年にして年齢から来る心身の衰えを理由に譲位の意思を表明した。このとき首親(おびと)王は15歳であったが、元明天皇譲位の詔によれば、首親王は政務を担当するにはまだ幼いとされた。一方、草壁皇子の弟たち(天武天皇の皇子)も存在していた。さらに、当時の朝廷には藤原氏を後ろ盾とする首親王の即位に反発する勢力も存在していたと見られる。

▽このようなことから、皇位継承をめぐる対立の激化を回避しながら首親王の即位を図るべく、首親王が成長するのを待つため、文武天皇の姉として最も近い血縁である元正天皇が即位したものと見られる。

▽なお、近年、元正天皇の即位については、首親王の母(藤原宮子)が皇族ではなかったため、元正天皇が即位し、首親王の養母として位置づけられることによって、首親王への皇位継承を正当化しようとしたのではないかとの見方が出されている。

▽いずれにしても、ここでも外戚藤原氏の影響がうかがえる。

7 孝謙天皇の即位の経緯(第46代、在位749年~758年)

▽孝謙天皇は第 45 代聖武天皇の皇女で、母は藤原安宿媛(あすかべひめ)(光明皇后)である。安宿媛の所生には阿倍内親王(後の孝謙天皇)の他に皇男子が1人お
り、生後1ヶ月で皇太子に立てられたが、夭折する。

▽その後、安宿媛は非皇族の身分から皇后(光明皇后)となり、次いで阿倍内親王が738 年に女性として初めて皇太子となり、更に749年に聖武天皇から位を譲られて即位した。

▽聖武天皇には藤原氏以外の所生の男子(安積親王)もいたことから、皇太子を経てなされた孝謙天皇の即位には、外戚藤原氏と光明皇后の意向が強く働いていたものと見られる。

▽なお、女性の皇太子も、皇太子を経て即位した女性天皇も、孝謙天皇が唯一である。

8 称徳天皇の即位の経緯(第48代、在位764年~770年)〔孝謙上皇が重祚〕

▽孝謙天皇は758年に淳仁天皇に譲位するが、太上天皇として譲位後も重きをなしていた。

▽やがて僧道鏡を信任する孝謙上皇と、淳仁天皇を擁する藤原仲麻呂との対立が起こり、遂に仲麻呂が乱を起こした。この仲麻呂の乱は、孝謙上皇方の勝利に終わり、仲麻呂を後ろ盾とした淳仁天皇も位を追われた。こうして764年に孝謙上皇が再度即位(重祚)し、称徳天皇となった。

▽このように称徳天皇の即位は、淳仁天皇を廃位して行われたものであったことから、権力をめぐる政治過程が招来した一つの帰結であったと見ることもできる。

9 明正天皇の即位の経緯(第109代、在位1629年~1643年)

▽第108代後水尾(ごみずのお)天皇は、徳川幕府の朝廷への姿勢に対する憤激等から 1629年に退位した。

▽このとき後水尾天皇の皇男子はいずれも夭折していたため、皇后源和子所生の皇女である明正天皇が即位した。(皇后源和子は江戸幕府第 2 代将軍徳川秀忠の娘。)

▽この後、紹仁(つぐひと)親王(後の後光明天皇)が誕生したため、親王が 11 歳となるのを待って、1643年、明正天皇は譲位した。

▽このように、明正天皇の即位は、朝廷と幕府との関係の軋轢が契機となっているが、男性の皇嗣の誕生を待つためのものであったと見ることができる。

10 後桜町天皇の即位の経緯(第117代、在位1762年~1770年)

▽第116代桃園天皇が崩御したとき、既にその皇嗣として定められていた英仁(ひでひと)親王はまだ5歳であった。このため、英仁親王が 10 歳ぐらいに成長するまで、桃園天皇の姉の智子内親王が位に即くべしとの桃園天皇生前の勅定により、智子内親王が即位して後桜町天皇となった。

▽このようなことから、後桜町天皇の即位は、皇位継承者の成長を待つため
のものであったと見ることができる。
▽その後、英仁親王は13歳の時に位を譲られて後桃園天皇となった。

歴代の女性天皇に関する事項

 

 

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