私たちは、皇室の伝統的な男系継承を確保する「養子案」の早期実現を求める活動を進めています

皇位継承の時代的変遷

参考資料・動画
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第3回皇室典範に関する有識者会議 平成17年3月30日(水)配付資料より

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資料1  皇位継承の時代的変遷(PDF)

歴代天皇系図(126代)
説明初代神武天皇から126代今上天皇陛下までの歴代天皇系図(A3サイズ、2ページ)を作成しました。この説明欄下のリンクよりダウンロード・複製・配付などして、ご自由にご活用ください(著作権は放棄しておりませんので改変しての再配付はご遠慮くださ...

7世紀以前

(1)初代神武天皇から第17代履中天皇までは直系継承が基本。(古事記・日本書紀の記録)

(2)第17代履中天皇から第18代反正天皇の継承以後,第37代斉明天皇まで,兄弟継承が顕著に見られる。

[兄弟継承の例]
第17代履中天皇→第18代反正天皇→第19代允恭天皇
第20代安康天皇→第21代雄略天皇
第23代顕宗天皇→第24代仁賢天皇
第27代安閑天皇→第28代宣化天皇→第29代欽明天皇
第30代敏達天皇→第31代用明天皇→第32代崇峻天皇→第33代推古天皇
第35代皇極天皇→第36代孝徳天皇→第37代斉明天皇

(3)第26代継体天皇は,第25代武烈天皇の高祖父の兄弟の玄孫であり(両天皇の4世遡った祖先が兄弟関係。継体天皇は,第15代応神天皇の5世の子孫に当たる。),異例の継承である。

(4)592年,女性が初めて即位し,第33代推古天皇となり,以後,7世紀中頃までに,第35代皇極天皇,第37代斉明天皇(皇極天皇重祚)と3代2方の女性天皇が見られた。

(5)645年,第35代皇極天皇が皇位を弟(孝徳天皇)に譲る。(初の譲位)

(6) 天皇がその在位中に皇位継承者を定める制度(皇太子の制度)は,7世紀頃に成立した。

7世紀~10世紀

(1)第37代斉明天皇から第38代天智天皇の継承以後,直系継承の傾向が見られる。

(ア) 第37代斉明天皇→第38代天智天皇→第39代弘文天皇の継承は直系である。

(2)7世紀末~8世紀後半には女性天皇が5代4方(第41代持統天皇,第43代元明天皇,第44代元正天皇,第46代孝謙天皇,第48代称徳天皇(孝謙天皇重祚))見られ,女性天皇による継承を介して天武系(直系)による継承が維持された面が見られる。

(3)9世紀前半の平安初期に一時兄弟継承が見られるが,その後10世紀前半の第61代朱雀天皇まで直系継承が支配的。

(ア)奈良時代末,称徳天皇で天武系(直系)が絶え,遠い傍系の光仁天皇に皇統は移るが,その後はまた平安初期に一時兄弟継承が見られる。

[兄弟継承の例]
第51代平城天皇→第52代嵯峨天皇→第53代淳和天皇
第50代桓武天皇の皇太子も当初は弟の早良(さわら)親王だった。

(イ)即位には至らなかったが,第52代嵯峨天皇の皇太子に第51代平城天皇の皇子が立ち,第54代仁明天皇の皇太子に第53代淳和天皇の皇子が立ったように,この時期には皇位の継承が二系統となる可能性もあった。(嵯峨朝の皇太子となった平城上皇の皇子である高丘(たかおか)親王は,平城上皇と嵯峨天皇とが対立した薬子(くすこ)の変により廃太子となり,また,仁明朝の皇太子となった淳和上皇の皇子である恒貞(つねさだ)親王は上級官人層内部の対立に巻き込まれ承和(じょうわ)の変により廃太子になり,いずれも政治的事件により,即位には至らなかった)。

(ウ)第54代仁明天皇以降,10世紀前半の第61代朱雀天皇までは直系継承が支配的である。
ただし,直系継承の中に次のような特殊な例もある。
① 第58代光孝天皇の皇子で,一旦臣籍に降下し,3年後に皇族に復帰して即位した第59代宇多天皇の例
② 第59代宇多天皇が即位前,臣籍にあった間に誕生し,後に皇族となり即位した第60代醍醐天皇の例

なお,第57代陽成天皇から第58代光孝天皇の傍系継承は,特殊な事情(藤原基経との対立など)による例外である。

(4)7世紀末以降,天皇の意思により皇位を譲る譲位の例が多くなる。

(5)724年,第42代文武天皇と藤原宮子(ふじわらのみやこ)の子である首(おびと)親王(第45代聖武天皇)が即位するなど,8世紀以降,天皇の母親は皇族以外の出身の女性であることが殆どの例となった。

(6)8世紀に親王の制度が定められ,その後天皇の勅裁により親王となる「親王宣下」が慣例化した。

(ア)701年,大宝令継嗣令により,天皇の兄弟,天皇の子を生まれながらの親王と定める。
(イ)814年,嵯峨天皇が詔を発し,既に親王である者及びその後誕生の同母弟妹,並びに特に勅裁を経た者は親王とすると定めた。
(ウ)この後,勅裁により親王とする親王宣下が慣例化し,天皇の兄弟姉妹,天皇の子であっても,親王宣下を受けなければ,親王・内親王と称しその待遇に預かることができなくなった。

(7)皇族が姓を賜り皇族以外の者の養子となる例が8世紀中頃以降,また,皇族が他の皇族の養子となる例が9世紀前半以降見られるようになる。

10世紀~13世紀

(1)第61代朱雀天皇から第62代村上天皇は兄弟継承。以後,13世紀の鎌倉時代中期まで,直系継承と傍系(兄弟・甥・叔父・従兄弟等)継承が入り混じる。

(ア)この時期の傍系継承の事情としては,直系の皇嗣が生まれる前に天皇が崩御した事例があるが,その他,譲位の盛行を背景に,摂関時代においては外戚の勢力事情,院政時代においては執政の上皇の意向等により皇位継承が行われたことなどが考えられる。

(イ)第63代冷泉天皇以降,第68代後一条天皇までの間は両統迭立である。

(2)第71代後三条天皇から第75代崇徳天皇は全て直系継承。

13世紀~14世紀

(1)第89代後深草天皇の系統(持明院統)と第90代亀山天皇の系統(大覚寺統)の間で,ほぼ交互に天皇に即位するという両統迭立となり,これが南北朝時代へとつながった。

(ア)この時期の両統迭立の事情としては,持明院統が嫡長子を尊重する考え方による継承を主張し,大覚寺統が父帝の意思を尊重する考え方による継承を主張したことがあると考えられる。

(2)世襲親王家が成立した。

(ア)前記2にあるように,親王宣下が慣例化し,一方,鎌倉時代以降,子孫(家)に継承される宮号が生まれ,やがてその宮家の継嗣は代々天皇又は上皇の養子となり親王宣下を受けることが慣例となった。これを世襲親王家と称する。

(イ)鎌倉時代に創設された親王家は,室町時代の中期から後期に絶えた。

15世紀以降

(1)室町時代以後,現代に至るまで直系継承が中心。

(ア)第101代称光天皇に皇男子がなかったことから傍系の第102代後花園天皇に皇位が継承されたが,それ以降は直系継承が中心。

[例外的に下記の傍系継承が見られる。]
① 第109代明正天皇→第110代後光明天皇→第111代後西天皇→第112代霊元天皇(兄弟継承が3回続く)
・第108代後水尾天皇の譲位の意思が固く,女性天皇である明正天皇へ,皇男子が生まれるまでとして譲位。
・その後の皇男子である後光明天皇は皇男子なく崩御したため,高松宮(後の有栖川宮)を継いでいた良仁(ながひと)親王(後水尾天皇の皇子)が,霊元天皇成長までとして即位し,後西天皇となった。
・後水尾上皇の意思と後光明天皇の早世による結果と考えられる。

② 第116代桃園天皇→第117代後桜町天皇(姉)→第118代後桃園天皇(甥)
・桃園天皇の直系たる英仁(ひでひと)親王(後の後桃園天皇)が幼少のため同親王が成長するまでの間,後桜町天皇が皇位に即いたものである。

③ 第118代後桃園天皇→第119代光格天皇(曽祖父の兄弟の孫)
・後桃園天皇の直系皇男子及び近親皇族の不在による系統移動である。

(2)女性天皇が2代(第109代明正天皇,第117代後桜町天皇)ある。

(3)四親王家(伏見宮・桂宮・有栖川宮・閑院宮の四宮家)が成立。(明治維新後,皇族制度の整備に伴い世襲親王制度廃止。旧皇室典範が定める皇族となる。)

(ア)伏見宮は室町時代,北朝第3代崇光天皇の皇子栄仁(よしひと)親王(1351~1416年)に始まる。同宮家の系統の皇族は昭和22年皇籍離脱。

(イ)戦国時代末から江戸時代に,桂宮・有栖川宮・閑院宮の三宮家が創設。
〈桂宮は1589年豊臣秀吉の奏請により後陽成天皇が宮家の創設を許し(当初は八条宮と号する)創設された。有栖川宮は創設の経緯は不明であるが後水尾天皇の時代,1625年に創設された(当初は高松宮と号する)。また,閑院宮は1710年徳川幕府が新井白石の進言に基づき奏請し,中御門天皇が勅許したことに始まる。〉

(ウ)桂宮家は明治時代に,有栖川宮家は大正時代に継承者不在により絶えた。閑院宮家は明治時代に伏見宮家の男子が継承し,昭和22年皇籍離脱。

※ 以上のほか,各時代を通して
① 男系による皇位の継承に例外はない(女性天皇から,その子への継承例はある)。
② 現行皇室典範で皇族の範囲を嫡出子に限定するまでの間,非嫡出子による継承が見られる。
ということがいえる。

 

(参考)皇位継承の型

初代から第125代までの124の継承例(この他に,北朝の6例:第96代から北朝第1代,第99代から北朝第6代の継承例を含む)については,下記のような型がある。

(1)直系継承(子,孫,又は親への継承):69例(この他に,北朝に2例)
・政治的に安定している時期には直系継承が多く見られる。

(2)兄・姉・弟間の継承:27例(この他に,北朝に2例)
・これらの中には,皇男子不在による場合の他,以下のような例がある。
(ア)第35代皇極天皇から第36代孝徳天皇への継承(乙巳(いつし)の変(蘇我氏本宗家の滅亡)を契機に孝徳天皇へ譲位。)
(イ)第51代平城天皇から第52代嵯峨天皇への継承(本資料2頁参照。)
(ウ)第75代崇徳天皇から第76代近衛天皇への継承(鳥羽上皇(第74代鳥羽天皇)の意向により,近衛天皇が即位。保元の乱の遠因となる。)
(エ)第83代土御門天皇から第84代順徳天皇への継承(後鳥羽上皇(第82代後鳥羽天皇)の意向により,順徳天皇が即位。)
(オ)第111代後西天皇から第112代霊元天皇への継承(後水尾上皇(第108代後水尾天皇)の意向。後西天皇は,後水尾天皇の皇子識仁(さとひと)親王(後の霊元天皇)成長を待って同親王に譲位した。本資料4頁参照。)

(3)上記(1)~(2)より遠い血縁への継承:28例(この他に,北朝に2例)
・これらの中には,以下のような例がある。

(ア)第25代武烈天皇から第26代継体天皇への継承の例(皇男子不在のため,武烈天皇から高祖父(4世の関係)の兄弟の玄孫(4世)へ継承。本資料1頁参照。)

(イ)第39代弘文天皇から第40代天武天皇への継承の例(壬申の乱による皇位継承)〔弘文天皇の父(1世の関係)の兄弟が即位。〕

(ウ)第47代淳仁天皇から第48代称徳天皇への継承(仲麻呂の乱による淳仁天皇廃位)の例〔淳仁天皇の父(1世の関係)の兄弟の曽孫(3世)への継承。〕

(エ)第57代陽成天皇から第58代光孝天皇への継承(陽成天皇と藤原基経との対立などから陽成天皇が退位し,藤原基経が擁立した光孝天皇が即位)の例〔陽成天皇の祖父(2世の関係)の兄弟への継承。本資料3頁参照。〕

(オ)平安時代中期,第62代村上天皇の皇子である第63代冷泉天皇と第64代円融天皇の系統から一時期交互に天皇が即位した際の例〔甥への継承,従兄弟への継承等,天皇の父(1世の関係)の兄弟の子孫への継承例がある。〕

(カ)承久の乱の結果,鎌倉幕府の沙汰により,第85代仲恭天皇が退位し,第86代後堀河天皇が即位した例〔仲恭天皇の祖父(2世の関係)の兄弟の子(1世)へ継承。〕

(キ)鎌倉時代中期以降,第89代後深草天皇の系統である持明院統と,第90代亀山天皇の系統である大覚寺統の両統から,ほぼ交互に天皇が即位するという状況が続いたことによる例〔従兄弟,又従兄弟への継承等,天皇の父又は祖父(1世又は2世の関係)の兄弟の子孫への継承例がある。〕

(ク)第118代後桃園天皇から第119代光格天皇への継承の例(皇男子不在のため,後桃園天皇から曽祖父(3世の関係)の兄弟の孫(2世)へ継承。本資料5頁参照。)

 

(※)なお,上記(2)及び(3)の中には,皇位の継承を目的として皇族が天皇又は上皇の養子となった以下の例がある(いずれも直系継承を擬制するために行われたと考えられる)。
(ア)1301年,伏見上皇(第92代伏見天皇)の皇子富仁(とみひと)親王が,後伏見上皇(第93代後伏見天皇)の猶子として第94代後二条天皇の皇太子となる(後に即位。第95代花園天皇)。
(イ)1336年,北朝第1代光厳天皇の皇弟豊仁(とよひと)親王が光厳天皇の猶子となり即位(北朝第2代光明天皇)。
(ウ)1428年,北朝第3代崇光天皇の皇曽孫彦仁(ひこひと)王(伏見宮第3代貞成(さだふさ)親王の子)が後小松上皇(北朝第6代・第100代後小松天皇)の猶子となり即位(第102代後花園天皇)。
(エ)1654年,第108代後水尾天皇の皇子識仁(さとひと)親王が,兄の第110代後光明天皇の養子となり,その後(1663年)即位(第112代霊元天皇)。
(オ)1779年,第113代東山天皇の皇曽孫兼仁(ともひと)王(閑院宮第2代典仁(すけひと)親王の子)が第118代後桃園天皇の養子として即位(第119代光格天皇)。

 

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