私たちは、皇室の伝統的な男系継承を確保する「養子案」の早期実現を求める活動を進めています

【十一宮家物語〈第八回〉】賀陽宮(かやのみや)家と竹田宮(たけだのみや)家 軍人皇族から皇籍離脱した賀陽宮家当主は掌典長、 竹田宮家当主はJOC委員長も ―竹田宮家の初代当主は明治天皇の皇女をお妃に迎えて―

国民の声
国民の声
宮田修一(ジャーナリスト)
皇籍離脱した11宮家のうち、今回取り上げる賀陽宮(かやのみや)家は久邇宮(くにのみや)家から分かれて創設され、2代恒憲(つねのり)王は戦後、宮中祭祀(きゅうちゅうさいし)の掌典長(しょうてんちょう)も務めました。北白川宮(きたしらかわのみや)家から分離した竹田宮(たけだのみや)家の初代恒久(つねひさ)王は明治天皇の皇女をお妃に迎え、2代恒徳(つねよし)王は戦後、JOC委員長として昭和39(1964)年の東京オリンピック開催に尽力しました。二つの旧宮家を継いだ賀陽家と竹田家は既述の久邇家、東久邇家とともに現在まで男子孫によって続いています。

賀陽宮(かやのみや)家の名称は榧(かや)の木に由来

 賀陽宮(かやのみや)家の初代は、久邇宮朝彦親王の第二王子である邦憲(くにのり)王である。慶應3(1867)年6月の誕生で、兄王が夭逝(ようせい)したため実質的に長子であったが、健康がすぐれないことから久邇宮家の後嗣(こうし)の立場を弟邦彦(くによし)王(2代久邇宮家当主)に譲った。明治25(1892)年結婚直後に、明治天皇から賀陽宮の称号を賜(たまわ)った。8年後の明治33年に久邇宮家から独立して正式に賀陽宮家として独立した。賀陽宮の宮号は、父の久邇宮朝彦親王がまだ伏見宮家に属していた幕末から明治元年まで称していたもので、親王邸にあった榧(かや)の老木に由来するという。邦憲王は14歳で、神宮祭主だった父朝彦親王の令達(命令)で創立された神宮皇學館(現皇學館大学)に入り、明治29年(1895年)から神宮の祭主も務め、明治42(1909)年12月に42歳の若さで薨去(こうきょ)。

恒憲王は早期の御聖断を求め スポーツ好きの「野球の宮様」

 賀陽宮家の2代当主は、邦憲王の第一王子で明治33(1900)年生まれの恒憲(つねのり)王。陸軍士官学校を卒業して以来、昭和20年の敗戦まで軍人皇族としての人生をおくった。馬術が得意だったこともあり、騎兵旅団長や騎兵連隊長を経験、陸軍戸山学校長や陸軍大学校長も務めた。「昭和天皇独白録」(『文藝春秋1990年12月号』)などには、恒憲王について「平和論者だった」と記されており、日米開戦に否定的だったと見られ、終戦についても昭和天皇に早期終結のご聖断を求めていたと言われる。昭和天皇独白録は終戦後、宮内省(当時)の側近が昭和天皇から戦前・戦中について直々にお聴きした内容を寺崎英成宮内省御用掛がまとめた秘録である。

 恒憲王は乗馬のほか、「野球の宮様」と言われたほどのスポーツ好きで、昭和9(1934)年に訪米した際にヤンキースタジアムで観戦してベーブ・ルースからサインボールをもらったのは有名な話である。戦後の一時期、宮中祭祀の掌典長と兼務で、宮内省の部局である「御歌所(おうたどころ)」(昭和21年3月まで存続)の所長を務めた。御歌所は明治初年に設置され、歌会始の事務などを行う部門で、明治天皇の御製(ぎょせい)集である「明治天皇御集(ぎょしゅう)」の編纂などを行っている。

 昭和22(1947)年10月14日、敏子妃、長男邦寿(くになが)王、次男治憲王、三男章憲王など6人の王、1人の女王とともに皇籍離脱し、「賀陽(かや)」姓を名乗った。昭和53(1978)年に77歳で逝去。千鳥ヶ淵戦没者墓苑には昭和20年3月の空襲で消失するまで賀陽宮家の邸宅があった。現在の賀陽家の第5代当主は今上(きんじょう)天皇の学習院初等科からのご学友である。

初代恒久王は内親王をお妃に

 竹田宮(たけだのみや)家の初代当主は、北白川宮能久(よしひさ)親王の第一王子である恒久(つねひさ)王で、明治15(1882)年に生まれ、陸軍士官学校を卒業して日露戦争に従軍後、明治39(1906)年3月に竹田宮家を創立した。明治41(1908)年に陸軍に所属しながら、國學院大學などの母体である皇典講究所の総裁となり、直後に明治天皇の第六皇女である昌子(まさこ)内親王をお妃に迎えた。明治天皇には10人の内親王がお生まれになったが、第一皇女から第五皇女までは夭逝(ようせい)され、昌子内親王が成人された初めての内親王である。妹君(いもうとぎみ)の房子(ふさこ)内親王は北白川宮成久(なるひさ)王、允子(のぶこ)内親王は朝香宮鳩彦(やすひこ)王、聡子(としこ)内親王は東久邇宮稔彦(なるひこ)王のお妃として宮家のお妃に迎えられた。

 恒久王は大正8(1919)年4月、当時世界中で大流行し推計死者が最大5000万人と言われるスペイン風邪に感染して36歳で薨去。

賀陽宮(かやのみや)家 竹田宮(たけだのみや)家

恒徳王は戦地に終戦の聖旨伝達 前回の東京五輪でJOC委員長

 竹田宮家の2代当主は明治42(1909)年生まれの恒徳(つねよし)王『語られなかった皇族たちの真実』(竹田恒泰著)などによると、陸軍士官学校を卒業した恒徳王は大東亜戦争中、第一線への出征を志願したが皇族であるために聞き入られなかったため、皇族の身分を隠すべきだと考えた。そこで、「竹田宮」の文字をひっくり返し、「竹」を「武」に替えて「宮田武」と名乗り、戦地で「宮田参謀」で通した。皇族であることを知るものは少なかったという。

 恒徳王は昭和20年8月15日の「玉音放送」の翌日、他の皇族軍人2人ともに昭和天皇から戦地に終戦の「聖旨」を伝達する役目を命じられた。前回(第7回)でも触れたが、8月17日、朝香宮鳩彦(やすひこ)王が南京、閑院宮春仁(かんいんのみやはるひと)王がサイゴンなど、そして恒徳王は新京(長春)の関東軍司令部と奉天(瀋陽)の第三方面軍司令部、京城(ソウル)の朝鮮軍管区司令部に派遣された。昭和天皇は恒徳王らに「自ら第一線を廻って自分の気持をよく将兵に伝えたいが、それは不可能だ。ご苦労だが君たちが夫々手分けして第一線に行って自分に代わって自分の心中をよく第一線の将兵に伝え、終戦を徹底させてほしい」(竹田恒徳著『終戦秘話』)などとお言葉をかけられたという。恒徳王は満州国皇帝溥儀を日本に亡命
させる密命も受けていたが、これは叶わなかった。

 恒徳王は36歳の時に陸軍中佐で終戦を迎えた。他の宮家と同じように昭和22(1947)年10月14日、光子妃と恒正(つねただ)王など王2人、女王2人とともに皇籍を離脱した。三男で元JOC(日本オリンピック委員会)委員長の竹田恒和(つねかず)氏はその翌月に誕生している。竹田宮邸跡には高輪プリンスホテル(現・グランドプリンスホテル高輪)が建ち、本邸はホテルの貴賓館となっている。

 恒徳王は皇籍離脱の翌年に日本スケート連盟会長に就任したのをはじめ、第二の人生をスポーツ振興に尽くした。陸軍士官学校を卒業して騎兵少尉となった経緯もあって、日本馬術連盟会長にも就任。昭和39(1964)年の東京オリンピック開催時のJOC委員長。平成4(1992)年に83歳で亡くなった。

 

当連載は「皇室の伝統を守る国民の会」をご支援頂いている日本会議が発行する『日本の息吹』上で、令和3年3月号~令和3年12月号に掲載された論文を、許可を頂き当会ホームページに掲載しています
タイトルとURLをコピーしました