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【十一宮家物語〈第四回〉】皇位継承の有資格者として昭和22年の皇籍離脱まで皇室を支えた11宮家 ―伏見宮家から分かれ明治天皇とも昭和天皇とも血縁で結ばれた宮家も―

国民の声
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宮田修一(ジャーナリスト)
幕末・維新を経て明治39年までの約40年間に新設された宮家は久邇宮(くにのみや)家、賀陽宮(かやのみや)家、竹田宮(たけだのみや)家、東久邇宮(ひがしくにのみや)家など9宮家に及びました。そして、昭和22年10月の皇籍離脱までに、継嗣(けいし)がなく断絶した宮家を除き11の宮家が続きました。その間、明治天皇の4人の内親王(ないしんのう)と昭和天皇のご長女が宮家に嫁がれ、久邇宮家からは後の香淳(こうじゅん)皇后が皇太子裕仁(ひろひと)親王(昭和天皇)のお妃に入られ、皇統と宮家との血縁が強まりました。それぞれの宮家の第一の役割は皇統の万が一に備えることでした。

昭和22年まで続いた11の宮家

 幕末から明治初年にかけ、伏見宮(ふしみのみや)家から分かれる形で、山階宮(やましなのみや)家と梨本宮(なしもとのみや)家、久邇宮(くにのみや)家が創設されたことは前回で述べたが、さらに明治3年(1870)に北白川宮(きたしらかわのみや)家、明治36年(1903)に東伏見宮(ひがしふしみのみや)家が創設された。これらの新宮家はすべて第20代当主邦家(くにいえ)親王とその父である第19代当主貞敬(さだよし)親王の王子が僧籍から還俗(げんぞく)するなどして創設されたものである。

 さらに、その宮家の1つである久邇宮(くにのみや)家の初代当主朝彦(あさひこ)親王の王子3人が新たに宮家を創設した。明治25年(1892)に賀陽宮(かやのみや)家、明治39年(1906)に朝香宮(あさかのみや)家、同年に東久邇宮(ひがしくにのみや)家を創設した。また、同じ明治39年(1906)には、同じく伏見宮家から分かれた北白川宮家の第二代当主である能久(よしひさ)親王の王子が新たに竹田宮(たけだのみや)家を創設した。これらの9宮家に世襲親王家の伏見宮家と閑院宮家を合わせた11宮家が、戦後の昭和22(1947)年10月14日に皇籍離脱を余儀なくされるまで続いた。

 なお、図で示した系譜にもあるように閑院宮家は、江戸時代中期の113代東山天皇の第6皇子の直仁(なおひと)親王が初代当主だが、養子として6代目当主となった載仁(ことひと)親王は伏見宮家20代当主である邦家親王の王子であり、皇籍離脱時の11宮家はすべて伏見宮家につながっている。

明治期(一部幕末)の宮家創設と11宮家

皇室典範で全宮家が永世皇族に

 明治政府は当初、新宮家については親王は一代限りとし、二代目以降は姓を賜(たまわ)って臣籍降下(しんせきこうか)華族(かぞく)となることとしていたが、実際には維新の功労などによって二代皇族に列せられるなどした。明治22年(1889)に制定された旧皇室典範(現行の皇室典範と区別するため「旧」を付した)では、世襲の四親王家以外の新宮家もすべて「永世皇族」となった。その一方で、皇位資格者の増加によって皇室の有限の財力で永遠にその地位と品位を保つことはできない恐れがあるとの政府の判断もあり、明治40(1907)年には、「皇室典範増補」が制定・公布された。これは、生誕時に天皇の五世以下「王」が天皇による勅旨(ちょくし)または情願(じょうがん)(王自身が願い出ること)によって家名を賜り、皇族から華族に臣籍降下することができるとする規定である。この「増補」は、旧皇室典範の改正ではなく条項の追加だけであるため、典範と区別して別途、制定された。

 なお、図表の系譜には加えなかったが明治期に創設され、戦前に断絶した2宮家についても触れておきたい。伏見宮家第20代の邦家親王の第9王子である博経(ひろつね)親王は、明治元(1868)年に華頂宮(かちょうのみや)家を創設したが、第4代の王子が大正13年に薨去(こうきょ)され宮家は断絶した。また、同じ伏見宮邦家(くにいえ)親王の第7王子、彰仁(あきひと)親王は明治15(1882)年に小松宮(こまつのみや)家を創設したが王子がなかったため、明治36年の薨去(こうきょ)で宮家は断絶した。

内親王が嫁がれて宮家と血縁強化

 ところで、明治天皇は皇女4方を新宮家に嫁がせられた。明治天皇は明治6年に初めての皇女となる方が死産となり、続いて明治20年までに皇女4方がお生まれになったが、不幸にもどなたもが夭逝(ようせい)された。その後、誕生され成人された4人の内親王は全員、各宮家に嫁がれた。

 第6皇女の昌子(まさこ)内親王は初代竹田宮家の恒久(つねひさ)王のお妃に、第7皇女の房子(ふさこ)内親王は北白川宮家三代当主の成久(なるひさ)王のお妃になられた。さらに第8皇女の允子(のぶこ)内親王が初代朝香宮家当主の鳩彦(やすひこ)王、第9皇女の聡子(としこ)内親王が初代東久邇宮家当主である稔彦(なるひこ)王のお妃として嫁がれた。

 このように明治天皇が4人もの内親王を宮家に嫁がせられたのは、ただお一人の親王である嘉仁(よしひと)親王(大正天皇)が病弱でいらっしゃるという状況にあって、創設された宮家との関係を血縁によってより強固にしておこうとされたためで、すべては、絶えることなく男系で継がれてきた皇統を維持するためのご深慮と拝察される。

 さらに、香淳皇后は大正13(1924)年、当時の皇太子裕仁(ひろひと)親王のお妃として久邇宮家から嫁がれた。第2代当主である邦彦(くによし)王のご長女で、ご成婚前は良子(ながこ)女王と申し上げた。また、昭和天皇の皇女である成子(しげこ)内親王は戦時中の昭和18(1943)年、東久邇宮家の初代当主である稔彦王の第1王子盛厚(もりひろ)王に嫁がれた。東久邇宮家は稔彦(なるひこ)王と盛厚(もりひろ)王の親子で明治天皇と昭和天皇の皇女をお妃として迎えたことになる。

 

当連載は「皇室の伝統を守る国民の会」をご支援頂いている日本会議が発行する『日本の息吹』上で、令和3年3月号~令和3年12月号に掲載された論文を、許可を頂き当会ホームページに掲載しています
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