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【十一宮家物語〈第二回〉】皇統断絶の危機を救った伏見宮(ふしみのみや)家 ―南北朝時代に創設―

国民の声
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宮田修一(ジャーナリスト)
GHQの圧力によって昭和22年(1947)に皇籍離脱に追い込まれた11宮家は、南北朝時代に始まった伏見宮家から分かれて創設されました。その伏見宮家は代々の当主が天皇から親王の身分を与えられる世襲親王家という特別な存在として何百年にもわたって継承されました。実際に室町時代には3代目当主の王子が即位して皇統の危機を救いました。

天皇系図と伏見宮家系図 ~南北朝時代より

北朝内部の対立という時代背景で生まれた伏見宮(ふしみのみや)家

 本題に入る前に、伏見宮家誕生に関係する南北朝(なんぼくちょう)とその前後の時代背景を見てみたい。朝廷では鎌倉時代の文永9年(1272)に第88代後嵯峨天皇(上皇)が崩御(ほうぎょ)されたのと前後して、持明院統(じみょういんとう)大覚寺統(だいかくじとう)と呼ばれる二系統で皇位継承をめぐる争いが起き、両統が交互に即位する両統迭立(りょうとうてつりつ)が行われた。

 第96代の後醍醐天皇(大覚寺統)の御世(みよ)になると、天皇は混乱した政治の刷新を企図。二度の倒幕計画に失敗して元弘元年(1331)に隠岐(おき)に流され、光厳天皇(持明院統)への譲位を余儀なくされた。足利尊氏らが鎌倉幕府を滅ぼすと、天皇は皇位に復して「建武の中興」と呼ばれる親政を行ったが、尊氏が光明(こうみょう)天皇(持明院統)を立てたため吉野山に逃れ、朝廷は吉野の南朝と京都の北朝に分立。南北朝と呼ばれる時代が57年間にわたって続いた。同じ北朝内でも対立があり、こうした時代背景の中で伏見宮家が生まれた。

 第100代後小松天皇の御世(みよ)の明徳3年(1392)になって南北朝が合一、実質的に南朝が北朝に吸収されて現在の皇室に繋がっている。なお、明治天皇は南朝を正統とされたが、南朝北朝ともに神武天皇から男系で連なっていることに変わりはなく、北朝の5代の天皇の陵墓も天皇陵とされ、その御霊(みたま)は宮中三殿の皇霊殿に祀られている。

皇統断絶の危機に際し3代当主の王子が皇位を継承

 伏見宮家の初代当主とされるのが、北朝第3代崇光(すこう)天皇の第一皇子で応安元年(1368)に親王宣下(しんのうせんげ)を受けた栄仁(よしひと)親王である。栄仁親王は北朝の皇位を継承する立場にあったが、北朝自体が二系統に分かれて対立していたこともあり、皇位に就くことはなかった。後ろ盾の崇光上皇が崩御(ほうぎょ)されると出家して僧籍に入った。ちなみに、平安末期以降の朝廷の制度では、たとえ皇子であっても親王という身位(身分)を持つには、天皇が文書で命令を下す「親王宣下」が必要で、皇子以外は天皇の猶子(ゆうし)(形式上の養子)となるのが原則だった。

 その栄仁親王には二人の王子があり、長子が伏見宮家2代当主の治仁(はるひと)王。そして、第二子が3代当主となった貞成(さだふさ)親王で、初めて「伏見宮」という宮号を名乗った。初代当主の栄仁親王の住まいが皇室の御料地(ごりょうち)である「伏見御領」にあったため、これが宮号(みやごう)の起源となった。

 貞成親王には二人の王子があり、長子の彦仁王(ひこひとおう)は伏見宮家の4代目の当主となる立場にあった。しかし、第101称光天皇が後嗣(こうし)を残さず28歳の若さで崩御(ほうぎょ)されたため、8親等離れた彦仁王が親王宣下を受けないまま、わずか9歳で即位された(第102代の後花園天皇)。今から590年も遡(さかのぼ)る時代ではあるが、伏見宮家が現在の皇室に連なる皇統を断絶の危機から救ったのである。

 天皇の父となった貞成(さだふさ)親王には、本来は譲位した天皇に与えられる「太上(だじょう)天皇(上皇)」の尊号(そんごう)が贈られたが、親王はほどなくしてこれを辞退した。それでも後花園天皇は親王の薨去(こうきょ)後に後崇光院という諡号(しごう)を贈られた。伏見宮家の4代当主になった弟の貞常(さだつね)親王には、歴代当主が永続して(朝廷の)御領を御所とすることが許され、伏見宮家は代々の当主が親王位を持つ世襲(せしゅう)親王家となった。

 

当連載は「皇室の伝統を守る国民の会」をご支援頂いている日本会議が発行する『日本の息吹』上で、令和3年3月号~令和3年12月号に掲載された論文を、許可を頂き当会ホームページに掲載しています
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