私たちは、皇室の伝統的な男系継承を確保する「養子案」の早期実現を求める活動を進めています

【十一宮家物語〈第一回〉】新憲法下でも皇位継承権を有していた11宮家の存在 ―GHQの経済的圧迫と「戦犯」指名で天皇の藩屏(はんぺい)たる地位を追われ―

国民の声
国民の声
宮田修一(ジャーナリスト)
新憲法が施行されて5ヶ月後の昭和22(1947)年10月14日、天皇の藩屏(はんぺい)としての役割を担ってきた11宮家の皇族51方が皇籍を離脱しました。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、宮家への歳費支出を打ち切って莫大な財産税を課し、伊勢神宮の祭主だった皇族の長老を見せしめのように「戦犯」指名して拘置しました。当時の宮内府(*1)の幹部は、万が一の時は皇籍を離れる皇族方が皇位を継ぐこともあり得るとの考えも示していました。皇位継承論議においては、こうした経緯を記憶にとどめて、連綿と続いてきた男系継承の方策を探らなくてはなりません。

GHQの財産凍結指令は事実上の“皇籍離脱指令”だった

 米国務省は昭和20年9月22日、GHQを通じて『降伏後における米国の初期対日方針』(SWNCC150/4/A)を発表、皇室については「皇室の財産は占領の諸目的に必要な措置から免除されることはない」とした。同年11月18日には、いわゆる『皇室財産凍結に関する指令』を出し、「日本帝国政府は総司令部の事前の許可なく行われた皇室財産を含む一切の取引を無効とするために必要な措置を直ちに講じること」と通知した。さらに昭和21年5月21日(23日公表)には『皇族の財産上その他の特権廃止に関する指令』を出し、昭和天皇の直宮である秩父宮家、三笠宮家、高松宮家を含む各宮家に対し、既に支出している前年5月分を最後に、皇室財産からの歳費を打ち切り、財産税を課すことを命じた(*2)。これらは、宮家が皇族として生活していけなくなることを意味しており、事実上の“皇籍離脱指令”とも言えるものだった。

 一方、これと併行してGHQによる皇族への恫喝的な動きも強まった。昭和20年12月2日の梨本宮(なしもとのみや)守正王に対する「戦犯」指名である。12日に巣鴨プリズンに出頭し、翌年4月に不起訴になるまで拘置されたが、守正王は元陸軍大将だったものの当時72歳で既に軍務を離れていた。昭和18年から伊勢神宮の祭主を務める皇族の長老であったことから、見せしめとしての「戦犯」指名だったと見られている。このほか、昭和21年1月4日のGHQ指令を受け、日本政府は同年2月に『就職禁止、退官、退職等二関スル件』(公職追放令)を勅令として施行した。当時、陸海軍将校の経験のある15人の皇族が貴族院議員を務めていたが、失職の可能性があったため全員が自ら辞職した。

(*1)宮内府日本国憲法施行(昭和22年5月3日)により宮内省から宮内府となり、昭和24年6月から宮内庁となった。
(*2)ただし、後に皇族に残ることとなった3直宮家には、日本国憲法施行後、皇族費が計上された。

昭和天皇のお言葉に「陛下のご心中察し胸はりさける思い」

 各宮家に対し、昭和天皇から直接、降下を求めるご意思が伝えられたのは昭和21(1946)年11月29日だった。一ヶ月前の10月29日には枢密院本会議で「修正帝国憲法改正案」が可決され、11月3日には「日本国憲法」が公布(施行は翌22年5月3日)されていた。体調不良の山階宮(やましなのみや)家当主の武彦王を除く10宮家の当主をはじめとする成年の王や王妃18方が宮中に参内(さんだい)した。この中には、昭和天皇の叔母にあたる明治天皇第七皇女の北白川宮(きたしらかわみや)妃房子内親王や第九皇女の東久邇宮(ひがしくにのみや)妃聡子(としこ)内親王の姿もあった。参内はしていないが、陛下のご長女で東久邇宮家の後嗣の盛厚(もりひろ)王の王妃成子(しげこ)内親王も臣籍降下の対象だった。

 その際の様子が、長老の梨本宮(なしもとのみや)守正王の伊都子(いつこ)妃の日記に残されている(『梨本宮伊都子妃の日記』小学館)。「此の時局に関し申しにくき事なれども、私より申し上ますと仰せられ、生活其他に付、皇室典範を改正になり、色々の事情より直系の皇族をのぞき、他の十一宮家は、此の際、臣籍降下にしてもらい度(たく)、実に申しにくき事なれども、何とぞこの深き事情を御くみとり被下度(くだされた)いと、実に恐れ入りたる御言葉。(中略)ほんとに、陛下の御心中、御(お)さっし申上ると、胸もはりさける思ひ」。「私どもは憲法発表、皇室典範の事など新聞ですでにみてゐるから、もうどうせ臣下にならねばならぬと覚悟はしてゐるが、実に何ともいへぬ心もちである」。

内親王が嫁がれた宮家も皇族に残すべしと主張した重臣

 ところで、終戦処理内閣の首相を務めた東久邇宮稔彦(なるひこ)王が首相辞職後の昭和20年11月、新聞記者に対し「陛下に対してなんら進言申し上げることをしなかったことについて道義的責任がある」などとして、昭和天皇の弟の三直宮以外は臣籍に降下すべきとの持論を語った。他にも敗戦の責任をとって臣籍に下る決意をしていた皇族もいた。しかし、多くの皇族はそうではなかった。中でも、閑院宮春仁王(かんいんのみやはるひとおう)(戦後は閑院純仁と改名)は昭和天皇が昭和21年11月29日に各宮家の皇族を前に話された前述のお言葉について次のように回想している。「(諸般の情勢とは)いうまでもなく、GHQの方面の意向であり、それが皇室縮小、ひいては日本弱体化政策の一環であることは明らかである」(『私の自叙伝』新人物往来社)。その上で、次のように記している。「情勢ここに至り、ことに陛下のお言葉もある以上は、いっさいの意見を捨てて、虚心に事態に従うことにやぶさかではない」。

 ここで付け加えておきたいのは、皇籍離脱に向けた政府内の折衝の過程で、重臣会議に臨んだ牧野伸顕伯爵が、皇后陛下(香淳皇后)の出身宮家である久邇宮家を直宮として遇し、さらに明治天皇の内親王と昭和天皇の内親王が嫁いだ朝香宮(あさかのみや)家、東久邇宮家、北白川家、竹田宮家の四宮家も残すよう主張していたことである。牧野伯爵は重臣として昭和天皇の信任が厚く、側近たちに宮中改革などに関する助言を行う立場にあったが、最終的には宮内省の「三直宮家」のみを残すという方針は覆らなかった。

「皇位を継ぐべきときが来るかもしれないとのご自覚を」

 昭和22年10月13日、宮内府で初めての皇室会議(議長、片山哲総理大臣)が開かれて審議が行われ、11宮家の皇籍離脱が正式に決まった。新たに規定された皇室典範の「年齢十五年以上の内親王、王及び女王は、その意思に基き、皇室会議の議により、皇族の身分を離れる」(第十一条)などの規定が適用され、翌14日付けで11宮家の未成年皇族を含む51方が皇籍を離れ、各宮号を姓とする戸籍を設けた。各皇族には国会の議決を経て一時金が渡されたが、GHQの指示もあって元軍人への支出はなされなかった。皇室典範には「その意思に基き」とあるが、それはあくまでも建て前であって、財産税の納付によってその資産の大半を失った各宮家の皇族方は、その後の確かなあてもなく、市井に放り出された。ただ、5月3日に日本国憲法が施行されてから5ヶ月余り、11宮家は短期間ではあったが現憲法下に於いても皇位継承権を持つ皇族であった。

 最後に『正論SP vol2 天皇との絆が実感できる100の視座』に掲載されたインタビューを紹介する。当時宮内府次長だった加藤進氏が重臣会議で鈴木貫太郎元首相と交わしたやりとりをこう証言している。「『今日、皇族の方々が臣籍に下られることがやむを得ないことはわかったが、しかし皇統が絶えることになったらどうであろうか』との意見がありました。私は(中略)『万が一にも皇位を継ぐべきときが来るかもしれないとの御自覚の下で身をお慎みになっていただきたい』とも申しあげました」。安定的な皇位継承の在り方が求められる中、皇籍離脱をめぐってこうしたやりとりがあったことを記憶にとどめておきたい。

 

当連載は「皇室の伝統を守る国民の会」をご支援頂いている日本会議が発行する『日本の息吹』上で、令和3年3月号~令和3年12月号に掲載された論文を、許可を頂き当会ホームページに掲載しています
タイトルとURLをコピーしました