私たちは、皇室の伝統的な男系継承を確保する「養子案」の早期実現を求める活動を進めています

【十一宮家物語〈第三回〉】内外情勢がひっ迫する中、幕末から明治に新宮家が立て続けに誕生 ―孝明天皇と明治天皇の勅許で伏見宮家から分かれ―

国民の声
国民の声
宮田修一(ジャーナリスト)
伏見宮(ふしみのみや)家は、江戸初期に2代続けて天皇の内親王(ないしんのう)を当主の妃に迎え、中期には皇子を当主に迎えるなど皇統と近い血縁関係を維持して来ました。幕末になると孝明天皇は四親王家(四宮家)の先細りを心配され、明治天皇も内外の情勢が逼迫する中で宮家の拡充を進められ、伏見宮家から分かれた新宮家が次々に誕生しました。今号は久邇宮(くにのみや)家、山階宮(やましなのみや)家、梨本宮(なしもとのみや)家までとし、次回に他の新宮家を取り上げます。
*本文後半では11宮家については緑色の文字で表記

江戸初期の二代当主の妃に皇女

世襲親王家 伏見宮家

 南北朝時代に創設された伏見宮(ふしみのみや)家は、第102代後花園天皇の弟にあたる貞常(さだつね)親王が4代当主となったことを契機に世襲親王家となったことは前号で述べた。その伏見宮家は、時代が下って江戸時代の初期から中期にかけ、再び皇統との血縁が近くなった。14代当主の邦永(くになが)親王は第112代霊元(れいげん)天皇の皇女である福子(ふくこ)内親王(ないしんのう)を妃に迎えた。二人の間に生まれた長子で15代当主の貞建(さだたけ)親王も第113代東山天皇の皇女である秋子内親王を妃に迎えた。さらに、江戸中期には、第118代の後桃園天皇の第2皇子である貞行(さだもち)親王が17代当主になった。しかし、その親王はわずか13歳で薨去(こうきょ)したため、16代当主の弟で出家していた邦頼(くにより)親王が還俗(げんぞく)して18代当主に就いた。

幕末に四親王家以外で初の宮家

 江戸末期までの宮家は、これまで述べてきた伏見宮家のほか、桂宮(かつらのみや)家(安土桃山時代に創設)、有栖川宮(ありすがわのみや)家(江戸初期に創設)、閑院宮(かんいんのみや)家(江戸中期に創設)という世襲の四親王家に限られ、各宮家の子弟は当主を継ぐ皇族以外は出家するのが恒例となっていた。なお、閑院宮家は、宝永7年(1710)に将軍家宣(いえのぶ)侍講(じこう)役だった新井白石(あらいはくせき)の献策を受け、中御門(なかみかど)天皇が勅許(ちょっきょ)なさって創設された。2代典仁(すけひと)親王の第6子である兼仁(ともひと)親王は、皇嗣(こうし)のなかった118代後桃園天皇の崩御(ほうぎょ)に伴い急遽養子となり119代光格天皇となられた。現在の皇室はその直系にあたる。

世襲親王家 有栖川宮家・桂宮家

世襲親王家 閑院宮家

 しかし、幕末になると、その閑院宮家も5代当主の薨去(こうきょ)後は当主の妃が家名を継いでいる状態(明治5年に伏見宮家の親王が6代当主を継承)で、桂宮家も皇女が女性当主となって継承するという異例な形になっており、孝明天皇は皇統の維持を支える宮家の先細りを強く心配された。天皇は討幕派と公武合体派のせめぎ合いが続く文久3年(1863)、四親王家以外に初めて宮家創設を勅許(ちょっきょ)され、伏見宮家20代当主である邦家親王の王子の朝彦(あさひこ)親王は中川宮の宮号を賜(たまわ)った。なお、朝彦親王は明治維新後、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)と通じたなどとして新政府ににらまれ、親王位を剥奪(はくだつ)され幽閉(ゆうへい)されるなどした。しかし再び親王宣下(しんのうせんげ)を受け、明治8年(1875)に新たに久邇宮(くにのみや)家を創設した(本稿では中川宮家を久邇宮家に継承された同一宮家として捉えた)。同じ幕末の元治元年(1864)には、朝彦親王の兄の親王は山階宮(やましなのみや)家を創設した。時期は前後するが、明治3年(1870)には伏見宮家19代当主の貞敬(さだよし)親王の王子である守脩(もりおさ)親王が梨本宮家を創設した。

 

当連載は「皇室の伝統を守る国民の会」をご支援頂いている日本会議が発行する『日本の息吹』上で、令和3年3月号~令和3年12月号に掲載された論文を、許可を頂き当会ホームページに掲載しています
タイトルとURLをコピーしました